「進行すると水原一平・元通訳のようになります」

田中さんは自身を「ギャンブラーの妻で、ギャンブルと買い物依存症の当事者」でもあり、夫とともにギャンブル依存症の問題から自助グループのなかで回復したと、ギャンブル依存症問題を考える会のホームページで明らかにしている。

田中さんはギャンブル依存症を「脳のなかの機能不全で、病気なのです」と指摘し、「進行してくると水原一平・元通訳のようになります」と話す。

自らをギャンブル依存症とアルコール依存症の経験者というのは、三宅隆之・ワンネス財団共同代表。いまはギャンブルをしない、酒を飲まない生活を続けている。この財団は、精神疾患などの心身の回復と成長を支援する専門機関だ。三宅さんは自らの壮絶な経験を次のように話す。

「どういう高校に入れば親に喜ばれるか」と三宅さんは考え、地元でトップクラスの高校に入った。親からは「いい大学にいける」と期待されたが、高校で「成績が上がらず、親に申し訳ない、自分にも許せないとストレスを抱えていた」という。

そんなときに部活の先輩に誘われて酒を飲んだところ、「天にも昇る気持ちで、ぱっと気持ちが晴れた」と。お酒でストレスを紛らわせ、親との会話はなくなり、自室にひきこもるようになった。

アルコール依存状態だった三宅さんは、浪人しながらも大学に進学した。希望の大学でなかったこともあり、酒量が増え、ギャンブルと出会った。大学に入学後の夏ごろ、先輩に連れられたパチンコ店で「体が震えるような快感」を覚えた。「大きな刺激がいまだに残っている」と当時を振り返る。

三宅さんは「ギャンブルがひどくなり、半年後にコントロールがきかなくなった」という。大学の友人に借金をして返せなくなり、時給の高い夜勤アルバイトを始めた。夜勤が終わった翌朝に、学校でなく、パチンコ店に行くこともあった。このころ、サラ金で借金をするようになった。

大学を卒業した三宅さんは、会社に就職した。自分が「どうみられているか」を気にしながら、仕事が終わると会社から逃げるようにパチンコ店へ行った。ストレスをまっとうに解消せず、パチンコにのめり込み、借金を重ねた。借金を重ねる生活は会社で発覚し、退職を余儀なくされた。退職直前のボーナスなどで、借金は何とか返済できたという。

その後、三宅さんは東京に出て転職した。「ギャンブルをやめて、ギャンブルのことを考えないようにしようと思っていたが、ちょっとならいいかもと、ギャンブルを始めるようになった」と振り返る。当時はサラ金からも借金ができなくなり、ヤミ金にまで手を出した。さらに、会社のお金に手をつけ、同僚の財布からお金を抜き取り、会社に発覚して刑事事件となった。

三宅さんは会社を解雇され実家に戻った。そのとき、支援組織の存在を知り、民間の支援を受けることで立ち直ったという。そこで「ギャンブルやお酒につながらない生活パターンをつくってもらった」と話す。

依存症の人について、三宅さんは「一般的にはだらしない、自分の好き勝手にしていると、表面上はみられている」と指摘し、社会の見方が批判的なのは仕方がないともいう。一方で、「原因はだらしないというのを超えたところにある」とも話す。

さまざまな依存症の人々
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