「天皇杯では負ける気がしなかった」

昨年の同じ日、ここにマネージャーとして来たことを思い出した。

「(元監督の)オタシリオは決勝まで行くつもりがなかったんです。ここら辺で負けるだろうとオタシリオたちブラジル人スタッフの帰国便を手配していた」

そのことを知った日本人選手たちが、あいつらふざけんなよっ、絶対に元旦までひっぱってやるって言っていたんですと苦笑いした。決勝の主催は日本サッカー協会であり、自分たちの仕事はない。マネージャー時代と同じようにベンチ裏で観戦するつもりだった。

選手、現場のスタッフたちは国立競技場から約6キロ離れた港区白金台にある都ホテルに宿泊していた。ホペイロの山根は荷物運搬用の車で選手たちよりも先に会場に入り、準備を始めた。

「試合用のユニフォームはロッカーに入れて、練習着は長椅子、その下にスパイクを並べる。この日は延長戦、そして表彰式もあるので4枚用意していました。試合前から置いておくと、くしゃくしゃになってしまうのでロッカーには2枚だけ、残り2枚は廊下に置いていました」

天皇杯では負ける気がしなかったと山根は言う。

「準々決勝でジュビロと準決勝でアントラーズという強いチームと当たりましたが、怪我人さえ出なければ勝てると思っていました。一度練習中にアツ(三浦淳宏)さんが足首をやってしまい、ピリついたことがありましたが、それ以外、怪我人は出なかったはずです」

ライトに照らされたサッカースタジアム
写真=iStock.com/Oliver Hasselluhn
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残り少ない仲間との時間を愛しむ気持ち

試合当日の朝、都ホテルの食事会場には選手が三々五々集まった。部屋には大きなテレビが設置してあった。監督のゲルト・エンゲルスは空から撮影した国立競技場の映像が流れたことを覚えている。各テーブルを回って、選手たちと言葉を交わした。

「今さら新しいことはできない。リラックスしてやりましょうと言ったのかな。そう言っているぼくが一番緊張していたと思うよ」

前田は準々決勝の磐田戦あたりからチームの雰囲気が変わったと振り返る。

「磐田、鹿島という97年、98年のJリーグチャンピオンと当たっていくわけです。負けたら終わり。決勝まで行くぞと言いながら、食事会場がお別れムードというか、寂しくなっていくんです。ぼくは試合の前の日はお酒は飲まない。ただ、(準決勝の)鹿島戦の前夜、サンパイオとちょこっとだけワインを飲んだ記憶がありますね」

残り少ない仲間との時間を愛しむ気持ちになっていたのだ。

「元旦の朝、みんなあんまり喋っていなかったような気がしますね」

PJMフューチャーズにいたとき自己啓発セミナーに参加した前田は、5年後に日本一になると目標を立てた。それが実現しようとしていた。調子は良かった。

薩川、佐藤尽との三人のディフェンスの真ん中に入り、身体を張り、味方を叱咤激励した。磐田、鹿島のような試合を続ければ日本代表に呼ばれるかもしれないと思ったこともあった。

ただし――。

準決勝の鹿島戦で薩川がレッドカードで退場、決勝は出場停止処分となった。前田は薩川のポジション、三人のセンターバックの左に入ることになっていた。ややテンションが落ちていたんですと前田は冗談っぽく顔を顰めた。

ホテルからバスで国立競技場に移動、ウォーミングアップのためピッチの中に入ると、自分たちへの好意的な視線を感じた。

「フリューゲルスに対する声援が明らかに多かった。全体がなんというのかな、どんよりとしたお別れの雰囲気のようでした」