大正時代に流れた「原料は蛇」というデマ

池田の高い志によって誕生した味の素だったが、最初から手放しで受け入れられたわけではなかった。

販売が軌道に乗り始めた大正時代、「原料が蛇である」というデマが流れ、新聞広告に「原料は小麦」「原料は小麦の蛋白質」といちいち明記しなければいけない事態に見舞われた。公式サイトの「味の素グループの100年史」では、デマの原因を「古くから日本の各地には、蛇が珍味をもたらすという伝説が存在していたので、これが『味の素』と結びついたという説もある」と推測している。

あまりに簡単においしくなるために、これには何か裏があるのではないかといぶかるほど、当時の人々が驚いたことの証左かもしれない。味の素論争はすでにこの頃から始まっていたのである。

だが、1927年(昭和2)に宮内省御用達になった頃には、類似品が出回るほど広まっていた。戦中から戦後にかけて生産は一時ストップするも、高度成長期を迎え、業界は再び発展を遂げる。

その背景には技術革新もあった。1956年(昭和31)、協和発酵工業(現・協和キリン)が、微生物を利用してグルタミン酸を製造する直接発酵法を確立。コストを抑えて大量生産できるようになった。また、先にふれた国中らの「うま味の相乗効果」の発見によって、グルタミン酸とイノシン酸を掛け合わせた商品も複数のメーカーから登場した。味の素よりうま味の強いハイミーもその一つだ。

料理本のレシピにも当たり前のように登場したうま味調味料

当時の料理本には、うま味調味料がかなりの頻度で登場している。

たとえば、ハイカラな西洋料理に定評があった料理研究家の草分け、江上トミが著した『私の料理 日本料理』(柴田書店、1956年)では、吸いものの汁に「旭味あさひあじ少々」が出てくる。旭味は旭化成工業(現・旭化成)が手がけていたブランドだ(現在は販売終了)。そのほか煮しめや大根の煮なますなどの煮ものや酢飯など、旭味はちょこちょこ登場する。

澁川祐子『味なニッポン戦後史』(インターナショナル新書)
澁川祐子『味なニッポン戦後史』(インターナショナル新書)

同じく料理研究家の第一人者である辰巳浜子著『手しおにかけた私の料理』(婦人之友社、1960年)を見ると、こちらは味の素派だ。

小アジの酢のものに使う三杯酢のレシピには、コップ半杯の酢に対し、味の素小さじ半杯を入れるようになっている。ほかにも汁ものや魚の照り焼き、なすの副菜、天つゆなど、さまざまなレシピに味の素は使われている。材料表の最後に「味の素」とだけ記され、分量の指示がないレシピが多いところを見るに、味の調整役として適宜入れることを想定していたと考えられる。

しかし、1992年(平成4)に復刻された『手しおにかけた私の料理 辰巳芳子がつたえる母の味』(婦人之友社)をみると、随所に登場していた味の素はすべて削除されていた。

再編集を手がけたのは、辰巳浜子の娘で同じく料理研究家になった辰巳芳子だ。本の冒頭には「時代の推移により、素材の状況も、それを扱う人々の状況もかわりました」と、時代の変化を踏まえて改変したことが断ってある。推測するに、味の素の記述をざっくり削除したのもその一環なのだろう。

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