見えにくかったものがテクノロジーで可視化された

仏教では、「私」という存在は他者があって初めて成り立つと考えます。一滴の水をイメージしてください。空気中に存在しているときは「その一滴の水」として認識されますが、海や川に流れてしまえば、その一滴を特定することができなくなります。

一滴の水が消えたわけではありませんが、周りが同じ水だと、認識されなくなってしまうのです。

これと同じで、「私」も「私ではないもの」に囲まれているがゆえに認識されます。

つまり、自分の存在を確認するには、自分以外の他者に囲まれて、他者からの認知のリフレクション(反射)として確認するしかありません。つまり、他者に承認させたいという欲求は自分を確立したい欲求とほとんどイコールで、真理に則ったことなのです。

ですから、ちょっと突飛なことをして注目を集めようとするのは、不思議なことではありません。とはいえ昨今のSNSを取り巻く状況に多くの人が違和感を抱いているのは、一個人の言動が影響を及ぼす範囲が、テクノロジーによって桁違いに広く・速くなったからでしょう。

おそらく百年前も、発信力を持った人物が承認欲求からくる言動で事件を起こしたケースはあったでしょう。けれどその数は非常に少なかったはずです。

人間の構造は昔から変わらないのに、今その数が圧倒的に増えているのは、これまで見えにくかったものがテクノロジーで可視化された結果といえます。

SNSでつい「盛ってしまう」のはなぜか

では次に、なぜ人間の承認欲求がここまで膨らんでしまうのか考えてみましょう。

承認欲求を満たすためには、他者から承認されたことを確認する必要があります。前述の通り、自分の存在は他者を通じてしか認知することができません。

それはそうなのですが、他者からのリフレクションとしての自分を認知したうえで、それを評価し、確立する作業をおこなうのは自分であるべきです。

ところが現代は、一人一人のその作業が圧倒的に足りていません。言うまでもなく、その大きな理由の一つがSNSです。

「いいね」が何個ついたとか、動画の再生回数が何万回を超えたとか、他者からの評価が数字で可視化される。まるでその数字が、その人の戦闘力を表しているかのようです。

自己の評価が完全に他者基準になっていて、自分で評価することを放棄している。自己の確立を他者からの承認(SNSの「いいね」など)のみに依拠しているから、自分を実態以上に「盛ってしまう」現象が頻発するのですね。これが現代の大きな問題だと思います。

これまで何度か申し上げてきたように、仏教では唯心論、すべてのものごとは自分の心の中にしかないという考えが基本にあります。

「私」という存在が今ここに現出するのは、さまざまな因果関係の結果ですが、それに意味づけをするのは自分です。すなわちグッドなのかバッドなのかは、自分が決めればいいのです。

にもかかわらず、それをすることなく「SNSで『いいね』がたくさんついたからグッドだ」とか「罵詈雑言を浴びせられたからバッドだ」、行き過ぎると「私なんて生きている価値がない」と決めつけてしまうのは、自分の認識力を軽視しすぎています。

本来、他者から反射されるのは「私」という存在そのものであって、認識であってはいけないはず。認識の領域までも他者からの反射に依存してしまう態度が、現代の「バズの病」を引き起こしているのではないかと感じます。