無意味としか思えなかった修行時代の掃除

ブルシット・ジョブと聞いて私が真っ先に思い出すのは、僧侶になるための修行時代のことです。修行なので仕事ではありませんが、目上の人物から何かを強制されるという点では共通しています。

たとえば修行の一環として、寺の掃除をさせられます。もう本当に毎日毎日毎日毎日……。修行が続く限り、決まった時間に決まった場所の雑巾がけをします。でも毎日同じ場所を拭いていますから、汚れなんてないんです。

同様に「庭掃除の時間だから庭をきれいにしろ」と言われても、抜く草もないし集める落ち葉もない。でも「やれ」と言われるので「これ、意味あるのか?」と思いながら、仕方なく地面を這いずり回って、草の芽のようなものを探すのです。

こんなふうに「意味がないじゃないか」「形だけじゃないか」と思うことが修行にはたくさん、本当にたくさんありました。

形式じみたことを延々とやらされて「昨日もおとといも、1週間前も10日前もやったのに!」とイライラしていたあるとき、「俺の心、うるさいな」と思ったんです。

掃除をしろと言われているんだからすればいいのに、勝手に意味を求めて「これは意味のないことだ」と決めつけているのは、自分の心なのだと思いが至った瞬間、そうした自分の心の存在を確認することこそが修行で、それは意味がないことによって意味を持つのだと思えました。

現実的には、お寺に“監禁”されて毎日同じことをしているため、脳がやや異常な状態になっていたのだろうと思います。けれどその瞬間を体験した前と後では、世界の見え方が変わっていたのは確かです。

私は、ブルシット・ジョブはこれと共通する点があるのではないかと考えます。その仕事をブルシットだと認識しているのは、あなたの心なのです。仏教は唯心論の哲学ですから、それを意味がないと決めるのも意味があると決めるのも、自分次第です。

どんな出来事でもそれを自分の成長につなげることは可能ですし、逆にそれをさせない自分もまた、心の中にいます。そうした心の存在を確認し、向き合い、制御することで、より良い「生」に向かっていけるのではないでしょうか。

仏教僧の座禅
写真=iStock.com/SAND555
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その作業をブルシットでなくすために「閾値」を超える

そうは言っても、よごれてもいないのに掃除をしなければいけない状況はしんどいですよね。それ自体をグッドと思うことは難しいですが、その経験によりメタ認知を獲得できたことを、グッドだと解釈することはできます。

そして、そこからさらに高みを目指すには、閾値いきちを超える必要があります。

また私自身の話となりますが、閾値を超えるとはどういうことか、修行の中から得たことをお伝えします。

修行の中には、マントラというサンスクリット語の呪文のようなものを何千回も唱え続ける行があります。30度を超える暑い時期、私は風通しの悪いお堂に座っていました。

当然エアコンもなく蒸し蒸ししているのですが、「蒸し」だけでなく本当に「虫」もいて、クモやゴキブリが這ってくることもある。

その中で身じろぎもせずひたすらマントラを唱え続けていやになってくると、数珠を引きちぎって「うぎゃあああああ!!!」と叫びたくなる瞬間がやって来るんです。「もう無理だ」とキレる状態ですね。

でもそのような体験を積み重ねていって、ある閾値を超えると、自分のモードが一気に変わるのです。先ほどの拭き掃除でいうと、「この雑巾の一拭きで何かを得るんだ」と考え、たった1本の障子の桟を1時間以上かけて磨き続けることができるようになる。

「汚れもないのにしんどいな」と思っていた自分の心をどこか違う領域に飛ばし、目の前の作業に集中することが可能になります。

「無の境地」とでもいいましょうか。このモードになってしまえば、一見ブルシットな作業も、自分の「ものにする」ことができると思うのです。