人は直接体験しなければ納得できない生き物

しかし、やはりその方は「いや……」とおっしゃるんですね。やっと勝ち取った仕事なので、それを辞めたら周りに何を言われるかわからないと。

たしかにステータスのある会社だったので、気持ちはよくわかりますが……。そのとき私は「ゆっくり休んでくださいね」とお伝えするので精一杯でした。

理屈だけでいえば、思い込みや執着を外したうえで「自分が本当に大切にしたいものは何か」と心と向き合えば、答えはおのずと出てきます。でも現実には、その執着をなかなか外せませんよね。

人間は自分で直接体験したことでないと、腹の底から納得することはできないものです。なぜなら、執着やエゴは潜在意識領域のものだからです。

顕在意識領域のものであれば、「こうしたほうがいいですよ」と言葉で言われれば納得するはずですよね。

したがって、その人が持つステータスへの意識や、「頑張って勝ち取ったんだから」という惜しみから生まれる潜在意識の中の執着は、直接的な体験によって「意味がないな」と納得しない限り、外から言語で外すことは不可能なのです。

そして、どのような直接体験が執着を外すのかも、人や状況によって千差万別です。モンゴルに行って馬で草原を駆けたときかもしれないし、いつもの道を散歩しているときかもしれません。

階段を上る女性
写真=iStock.com/torwai
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「人生のあらゆることが修行だ」の本当の意味

直接体験といえば、「人生のあらゆることが修行だ」という趣旨の言葉を、みなさんも聞いたことがあると思います。私も僧侶になる前は「そうなんだろうな」と思いつつも、頭でわかった気になっていただけでした。

しかし実際に修行で、自分の限界を超えるような経験をして閾値を超えると、「人生で起こるあらゆることが修行だ」という言葉を体感的に納得できました。

これも直接的な体験をしたからこそだと思います。禅宗の開祖である達磨だるま大師が述べたとされるものをまとめた経典『二入四行論ににゅうしぎょうろん』の中に、こんな記述があります。

さとる前はさとりを追い求めても、まったくそれを得られない。けれどもさとりの道に一度入ってしまえば、それは後からついてくる。

「禅問答」という言葉を生んだ達磨大師らしい、わかりにくい表現ですが、その通りだと思います。「すべては修行だ」と言われて修行の道に入っても、直接体験をして閾値を超えるまでは、それはまったくわからない。

でも、いったん理解することができれば、すべてのことが納得されていくのです。

これは仏教の修行だけでなく、スポーツや楽器の演奏にも同じことがいえるでしょう。ある程度のレベルまでは、指導者が上達するための方法を言葉で伝えてくれますよね。