人は直接体験しなければ納得できない生き物
しかし、やはりその方は「いや……」とおっしゃるんですね。やっと勝ち取った仕事なので、それを辞めたら周りに何を言われるかわからないと。
たしかにステータスのある会社だったので、気持ちはよくわかりますが……。そのとき私は「ゆっくり休んでくださいね」とお伝えするので精一杯でした。
理屈だけでいえば、思い込みや執着を外したうえで「自分が本当に大切にしたいものは何か」と心と向き合えば、答えはおのずと出てきます。でも現実には、その執着をなかなか外せませんよね。
人間は自分で直接体験したことでないと、腹の底から納得することはできないものです。なぜなら、執着やエゴは潜在意識領域のものだからです。
顕在意識領域のものであれば、「こうしたほうがいいですよ」と言葉で言われれば納得するはずですよね。
したがって、その人が持つステータスへの意識や、「頑張って勝ち取ったんだから」という惜しみから生まれる潜在意識の中の執着は、直接的な体験によって「意味がないな」と納得しない限り、外から言語で外すことは不可能なのです。
そして、どのような直接体験が執着を外すのかも、人や状況によって千差万別です。モンゴルに行って馬で草原を駆けたときかもしれないし、いつもの道を散歩しているときかもしれません。
「人生のあらゆることが修行だ」の本当の意味
直接体験といえば、「人生のあらゆることが修行だ」という趣旨の言葉を、みなさんも聞いたことがあると思います。私も僧侶になる前は「そうなんだろうな」と思いつつも、頭でわかった気になっていただけでした。
しかし実際に修行で、自分の限界を超えるような経験をして閾値を超えると、「人生で起こるあらゆることが修行だ」という言葉を体感的に納得できました。
これも直接的な体験をしたからこそだと思います。禅宗の開祖である達磨大師が述べたとされるものをまとめた経典『二入四行論』の中に、こんな記述があります。
「禅問答」という言葉を生んだ達磨大師らしい、わかりにくい表現ですが、その通りだと思います。「すべては修行だ」と言われて修行の道に入っても、直接体験をして閾値を超えるまでは、それはまったくわからない。
でも、いったん理解することができれば、すべてのことが納得されていくのです。
これは仏教の修行だけでなく、スポーツや楽器の演奏にも同じことがいえるでしょう。ある程度のレベルまでは、指導者が上達するための方法を言葉で伝えてくれますよね。