「死ぬ義務」を求められるのはあなたかもしれない
なぜなら、もしそのような国で安楽死が法制化されたなら、その法律は遠くない将来に死を迎えるであろうとされた人に「死ぬ権利」を担保するものではなく、それらの人にたいして「死ぬ義務」を呼びかける根拠として使われかねないからだ。
「日本がこんな大変なときに、あなたはまだ生に固執するのか。あなた以外の人は、潔く死を決断した。国の将来、未来の子孫のために自ら進んで死を選ぶ、こんな美しく尊い行いをする人がいる一方で、あなたは国に迷惑をかけてまで、まだ生き続けたいと言うのか」
そうした「個人は国家のために殉じて当然」という、ほんの数十年前にあった恐ろしい同調圧力が、この国にはもう二度と蔓延しないと誰が言い切ることができるだろうか。いや、そうした空気の製造と拡散は、もうすでに始まっていると見たほうがよさそうだ。そうでなければ「人としての感性が完全に欠落した発言」をする人物がメディアで、こんなにもちやほやされるはずはなかろう。
楢山節考という物語を読んで、主人公「おりん」の決断と行いに、潔く美しく尊いものだとの感想を持つ人を私は否定するものではない。しかし、「おりん」の行動が褒め称えられたり、同調圧力によって「おりん」の行動を取らされたりする社会であってはならないと思うのだ。誰もが一人の人間として尊重され、他人に干渉されない真の自己決定のもと生きていける社会を大切にするのであれば。