90代の両親の介護でぶつかった壁

私は仕事で高齢者そして終末期医療に携わる一方で、プライベートでは90歳を超えた両親を持っている。つまり医師として終末期の患者さんとその家族を支える仕事をする一方で、介護を担う当事者でもある。その相対する立場、両者の視点から介護や終末期を考察して発信すれば、将来介護の当事者となりうる人たちへ、何らかの「活きたアドバイス」ができるのではないかとも考えた。

じっさい自分が当事者となったことで、今まで医師としての立場からだけでは見えていなかった問題が見えてきた。これは正直に白状しなければならない。もちろん今でもすべて気づけているとは言い切れない。しかし、少しでも気づこうと事細かに見ようとする姿勢に変わったことは事実だ。

例えば、掃除や洗濯、ゴミ出しに困っている高齢者をサポートするために、ヘルパーにお願いすれば良いだろうと短絡的に考えてしまいがちだが、じっさい親にそう提案すると、

「いつも困っているわけでもないし、せっかく来てもらっても、その時にお願いしたいことがあるとはかぎらない」

と断られてしまう。たしかに細々と具体的に思考実験すると親の言う通りだと気づく。

「人に迷惑をかけてまで長生きしたくない」の危うさ

そしてヘルパーの助けがまだ要らないのなら、せめて妻や私が手伝いに行こうと言うと、「あなた方も忙しいのだから来なくていい」と断られる。まだ常時介護を要するほどの状況ではないから、自分でできるうちは自分でやりたい、そして人に迷惑をかけたくないという気持ちがそう言わせているのであろう。

高齢者や介護を必要とする人の中には、私の両親と同じく「人に迷惑をかけてまで長生きしたくない」と語る人は少なくない。たしかにその気持ちはわかる。痛いほどわかる。だが、その人としての矜持を、巧みに社会保障費抑制論者の持論に利用されかねない現状を、私は非常に危惧しているのだ。

超高齢者や末期患者さんと話をしていると、「家族に迷惑かけたくないから早く死にたい」と言う人も少なくない。成田某氏のような「経済的強制安楽死」を推奨する人たちがこの声を聞いたら徹底的に持論に利用することだろう。そしてそれが「生産性無き者死すべし」の同調圧力へと繋がる。それが恐怖だ。(2024年3月14日