誰も経験したことがない降り方だった。12年7月の九州北部豪雨では、100ミリ超の雨が4時間近く降った。11年9月の台風12号では、1週間足らずに半年分の雨が降った。不気味に増え続ける豪雨のリスクとは――。(後編)

町長の家族も犠牲に。世界遺産に迫る「崩れ」

東日本大震災の陰に隠れているところがあるが、11年9月の台風12号が紀伊半島にもたらした水害は、日本の災害史にとって特筆すべき大きなものだった。

12年9月1日から4日間にわたって降り続いた総雨量は、奈良県上北山村で1808.5ミリ、大台ヶ原では2400ミリ超。熊野川には推定2万3000トンの水が流れ、1959年の伊勢湾台風時の流量を上回った。全国での死者・行方不明者の数は98人に上り、379棟の家屋が全壊、床上浸水5500棟、約1万6000棟の住宅で床下浸水の被害が出ている。十津川村の栗平地区の深層崩壊では一度に1390万トンもの土砂が流れ、巨大な土砂ダムを現在も形成したままだ。

十津川村がそうであったように、この台風災害の被害が各地で深刻化したのは、降り始めから3日後の9月3日夜から明け方にかけてのことだった。それでは当時、紀伊半島の海側の地域ではどのような状況が発生していたのだろうか。

紀伊半島で最も人的被害の多かったのは、死者・行方不明者が27人に上った那智勝浦町の井関・市野々地区である。隣り合うこの2つの地区は那智川沿いに位置し、川と並行する県道46号線を上った先には那智の滝がある。周囲の山中には世界遺産の熊野古道が通るため、観光客の往来も多い場所だ。

この「那智谷」では台風12号が四国を通過し始めた3日夜、100ミリを超す雨が降った。那智勝浦町における過去の最高時間雨量は96ミリだったが、4日午前2時台には市野々地区で140ミリを記録。このとき那智川沿いでは川に流れ込む沢が次々に崩壊していた。

町が異変に気付いたのは、その少し前のことだった。同町には那智川流域の西に太田川流域があり、後者では過去の雨で何度も浸水被害が発生していた。一方、那智川流域では過去に大きな水害の記録がなく、災害が起こるのであれば太田川流域であると判断した彼らは、上流の治水ダム・小匠ダムの水位をモニターで注視しているところだった。

那智勝浦町の寺本真一町長。この水害で妻と娘を亡くした。

21時30分から22時00分のわずか30分で水位が約1メートル上がり、町は県の操作規定に従って非常放流を開始した。放流後、1時間後には下流域での浸水被害が始まるため、彼らはそれに備えて一様に緊張していた。那智谷出身でこの水害により妻と娘の2人を亡くした寺本真一町長はこう回想する。

「太田川流域では職員が拡声器のついた広報車で避難指示が出ていることを伝えて回ったのですが、住民の1人が『私はここでいい』と残っていたんです。そのときはその方が心配でたまらんかった。そんなとき、家内から携帯に『娘が流された』と電話がかかってきたんです。電話が切れた後、那智谷の知人に電話をかけたのですが、どこも話し中でした。家庭電話も携帯も通じん。これはどういうことやろな、と思ったのが、いま思えば始まりでした……」