那智川流域での異変を察した町は、道路の崩落などに対応するため、午前1時に職員を現場に向かわせている。だが、このときすでに川の氾濫は始まっており、彼らは市野々地区に近寄ることができなかったばかりか、自らも近隣の高台への避難を余儀なくされた。さらに役場のある中心街の浸水も深刻化したため、災害対策本部への職員の参集が困難になった。
町は井関地区に避難勧告を出すが、川と雨の轟音で防災無線はほとんど聞こえず、たとえ聞こえたとしても、立っているだけで恐怖を覚えるような豪雨の中での避難は事実上不可能だった。午前1時台には危険を察した地元の自主防災組織独自の判断で、避難所となっていた井関保育所から市野々地区の小学校への避難が始まっている。2時過ぎの停電によって電話が不通になると、この時点で町は那智川流域に対して打つ手を失った。那智川沿いで大規模な土石流が次々と発生し始めたのは、ちょうどその頃のことだった(後に最初の避難所だった保育所にも大量の雑木や土砂が流れ込んでいる)。
井関区長の石井康夫さんは、その夜の光景を次のように語る。
「川では岩が跳ね上がっている状態で、井関に生まれた僕も初めて見る光景でした。岩が水門の上に上がっていくんですから、避難どころではない。恐怖を感じました」
続けて彼の語る当時の状況からは、凄まじい被災の様子が窺い知れる。
「日付が変わった頃に県道の一部が崩れたので、駐在さんと消防団員と僕の3人で通行止めをし始めたんです。すると2時か2時半頃から水がさらに増え、あとは一気です。おそらく土石流が発生したのはその頃だったのでしょう」
沢から流れ込む土砂は背後から家を呑み込み、川を塞いで濁流の流れを変え、車や木を巻き込みながら住宅地に入り込んだ。通行止め処置を続けた後、石井さんは「とにかく入って! 2階に上がって!」と家々を回り、自らも県道から1ブロック山側にある自宅に戻った。すると10分もしないうちに、流木や車が当たって家が震えるようになった。
激しい雨音の中に、助けを求める人の声を聞いた気がしたのはそのときだった。
「2階からライトを当てると、家に男性がしがみついていました。後で聞いたら、家の外に出た途端、流れに足をとられて流されたということです。助けに行こうとしたのですが、そのときはもう外の水圧で全くドアが開きませんでした。2階からシーツをくくって『とにかくつかまってろ!』と投げたのですが、流れが速くて引っ張り上げられない。夜明け頃になって、流れ着いた流木をつたって上にあがることができたんです」
一方で彼は「言葉ではなかなか言い表せない」とも続けた。
「夜中のあの濁流は、写真にも映像にも残っていない。重なり合った流木と車の上を水が滝のように流れ、石が跳ね上がり、人まで流れてくる状況を僕らしか知らない。2時間も3時間もそれが続くんやから。持ちこたえていた家も、何かの拍子に車が当たると流れ始めるんです。特に古い家は柱が1本やられると倒れてしまう。犠牲になった人たちはほとんど家にいたんです。井関地区にとって死者・行方不明者19人というのは、20人に1人が亡くなった災害だったということです。全世帯が被災し、4軒に1軒がなくなってしまったんやから……」