「役場も県も来ない。自分たちでやろう」
翌朝、彼はロープを使って水の流れの中を歩き外に出た。もとより急流である那智川が氾濫したため、道は激しい水流をともなって浸水していた。1階部分の水没で冷蔵庫の食料は失われ、飲み水もない。彼は各戸を回って住民の安否を確認していったが、周囲に響き渡る水の音に遮られ、2階や屋根裏にいる避難者に声が届かないこともあった。
県道が寸断されていたため、町や外部からの支援者は到達できなかった。唯一残されていたのは山中を通る熊野古道だが、そこは車両が通行できる場所ではなく、徒歩では市野々地区にたどり着くまでに1時間以上を要した。
ここで強調したいのは、井関・市野々地区でも地元住民やそこを故郷とする人々が自ら立ち上がったことだ。市野々出身で新宮市に暮らす岩渕三千生さんは、その1人として現場に駆け付けた。この災害で甥と復旧作業中だった父親を亡くし、「那智谷大水害遺族会」の代表を務める彼は当時の状況についてこう語る。
「4日の午後2時半くらいに着いたときは、もう地獄のようやった。道路には岩や電柱が転がっているし、道が川になっていて向こうに辿りつけんのやから」
彼が井関・市野々地区の手前まで来ると、そこでは那智勝浦町の建設業者が重機で道を開いていた。彼らは行政に依頼された業者ではなく、独自の判断で孤立地区への道路啓開を行っていた。彼らの努力によって、市野々に繋がる唯一の県道は、翌日になって通じるようになる。
「僕と機動隊の隊員がユンボのバケツに乗って水の中を渡り、向こう側で最初の捜索がやっと行えたんです。避難先の市野々の小学校の1階は、流木が大量に突き刺さっていて酷い状態でした」
時を同じくして、地元業者は水の勢いが弱まるのを待ってから、周囲に転がる岩や土砂を利用して流路を変えた。それによって以前の河道に氾濫した水が向かうようになり、井関・市野々地区の浸水は徐々に軽減されていくことになった。
「役場も県も来ない。だから、自分たちでやるしかなかったんや」と岩渕さんが言うように、災害復旧の初動は彼ら自身の手でその後も行われていくことになったのである。
ただ、道が通じ、外部からの支援者が訪れることができるようになっても、当時は彼らを取りまとめる拠点が地区内に存在しなかった。捜索、大量の瓦礫、各家庭のゴミの処理――それらを1つずつ行うことなしに、被災地は前に進むことができない。そこで井関区長の石井さんは、家の前に流れてきた机を利用し、「井関災害対策本部」と書いた紙を張り付けたという。荒れ果てた野外に設置された机しかない「本部」だったが、それが井関・市野々など那智川流域の情報の拠点となっていった、と彼は振り返る。
「机の前に自然と人が集まってきたんです。すると重機が足りない、ガソリンがない、お年寄りの様子を見てきてほしい、と来た人たちに頼めるし、情報も集まってくる。自衛隊、消防やボランティアの方々だけではなく、報道の人たちの拠点にもなるから、足りない物資を伝えて外に発信もできた。とにかく区長が目立つ所に本部の看板を置く。その効果が大きかったことは、こうした災害時の教訓として残すべきだと思いました」
以後、那智川流域では彼らが立ち上げた災害対策本部を中心に、被災者同士の情報交換やボランティア活動の取りまとめ、公的機関の捜索から災害ゴミの分別といった作業までがほぼ自主的な動きとして続けられていくことになる。
「この辺りは必ずしも地域の人たちの横のつながりが強いわけではなかったのですが、水害によってそのつながりが一気に生まれた」と石井さんは回想する。アメリカのジャーナリスト、レベッカ・ソルニットは『災害ユートピア』の中で、世界中の様々な災害の現場で被災者自身が自ら行動し、そこに無償で地域を立て直そうとする力が働く事例を紹介している。この那智谷で生じた行政に頼らない「自治」もまた、それに連なる象徴的な事例だったといえるはずだ。