原点はアメリカのジャズ、「テネシー・ワルツ」でデビュー

チエミの音楽のルーツは、ピアノ弾きの父に連れられ、進駐軍のキャンプをまわり、アメリカのヒット曲のジャズを歌って、人気を集めたこと。そんなチエミを発掘したのが、キングレコード文芸部の和田寿三ディレクターだった。

和田はキングレコーディング・オーケストラのバンドマスターから、知り合い(益雄)の娘がジャズを歌っていて、オーディションで失敗を続けているから聴いてほしいと相談を受け、14歳だったチエミと対面。そこで後のデビュー曲となると「カモン・ナ・マイ・ハウス」(家へおいでよ)をチエミが披露し、和田はその耳の良さ、フィーリングの良さや度胸の良さに引き込まれた。

江利チエミ。1954年10月3日に都内で行われたコンサート。『サンケイグラフ』1954年10月24日号
江利チエミ。1954年10月3日に都内で行われたコンサート。『サンケイグラフ』1954年10月24日号(写真=産業経済新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

その後、和田は独断でチエミとの契約を進めるが、そのときに脳裏をかすめたのが美空ひばりの存在だったという。

映画でひばりを起用した斎藤寅次郎監督から、キングレコードで面倒をみたらどうかと提案された際、和田は「私は子供っていうのは苦手でしてね。ジャリで勝負はしたくないんですよ」と断ってしまっていた。ところが、その後、ひばりはコロムビアに入り、矢継ぎ早にヒットを飛ばしたことで、逃がした魚の大きさを知る和田は、アメリカ兵の前で物怖じせずジャズを歌う少女・チエミに未来を託そうと考えたのだ。

母を亡くし、15歳で父や3人の兄を養うため芸能活動を

美空ひばりと江利チエミは、同い年ということもあり、何かと比較されたが、母がなしえなかった夢をかなえるために歌手になったひばりに対し、チエミが歌手になったのは生活のため。実は和田がチエミに会ったのは、歳子が脳出血で亡くなった数日後で、当時、一家は貧乏のどん底にあり、末っ子だったチエミが父と三人の兄たちの生活を支えていたのだった。

ちなみに、デビュー曲には「十四歳の天才少女が歌う テネシー・ワルツ」というキャッチフレーズがつけられたが、チエミはこれに反発。理由は、録音時は14歳だが、発売日には15歳になっているから、「歌を聴いてくれる人に嘘になる」という真っすぐな性質を表すエピソードもよく知られている。

「テネシー・ワルツ」は40万枚を売るビッグヒットとなり、その後も「トゥー・ヤング」「ビビディ・バビディ・ブー」をはじめとした、外国語+日本語ミックスのヒット曲が次々に生まれていく。