笠置にブギを禁じられたから「豆歌手」から脱皮でき成功した
結局、チエミは舞台を途中降板させられてしまったが、それを機に、吉本興業の園田はチエミの父・益雄と共に奮起。チエミの歌手デビューのために本腰を入れるようになる。だが、オーディションはなかなかうまくいかず、「今度こそ」と挑んだオーディションで、キングレコードの和田に見いだされることになったのだ。
結果的に、ひばりもチエミも、笠置の歌を歌うことを笠置&服部に禁じられたことにより、自身の道を突き進み、ブレイクした。その経緯は同じだ。また、ひばりは服部とは力道山のとりなしにより和解したが、チエミは銀座のナイトクラブ「銀馬車」の昼間のダンスパーティーで服部と再会。チエミが「東京ブギ」や「ヘイヘイブギー」を歌うのを聴いた服部が、自伝で次のように評価している。
なるほど、有楽座のときとはちがって、ビートがあり、子供の声から脱して巧みなフィーリングを身につけていた。チエミは小学校の六年生のころから進駐軍のキャンプ回りをしている。キングと契約の話もあるが。ぜひチエミのために新しい曲を書いてくれと頼まれた。さいわい、それから間もなくキングで吹き込んだ『テネシー・ワルツ』が大ヒットした。(中略)その後、アメリカへ行き、帰国したチエミはジャズ・フィーリングに格段の進歩をみせ、ことに黒人唱法を身につけて他の追随を許さない実力を示すようになった。
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)
いつまでも、ものまねのような歌唱では、独自の世界は切り開けない。笠置の楽曲使用禁止は、自分の立場を守ると同時に、娘ほどに若い後輩女性歌手たちへのエールでもあったのかもしれない。