チエミの母は少女歌劇のスター、父親はピアノ奏者
チエミ(智恵美)は1937年1月11日に、父・久保益雄と母・谷崎歳子の三男一女の末っ子として生まれる。まずドラマのアユミと類似しているのは、父母の職業だ。
藤原佑好による江利チエミの評伝『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』によると、久保益雄は初代柳家三亀松のもとで三味線弾きやピアノの伴奏をした後、吉本興業の専属バンドマスターとしてピアノ演奏をしていたバンド楽士だった。
一方、母・歳子は17歳の時に東京少女歌劇団に入り、スター女優の道を駆け上がると、軽演劇の主宰と結婚・出産を経て離別。その後、吉本興業の傘下で歌と踊りと芝居によってファンを魅了した。
ピアノ伴奏をする父と女優の血を受け継ぎ、芸事に秀でた出自を持つチエミとアユミ。
しかも、母・歳子は体が弱く、高血圧に悩まされていた上、3人の男の子を出産した後は腎臓の病が加わり、医師から出産は無理と言われたものの、「今度こそ女の子かもしれない。死んでもいいから女の子を生みたい。お願い!」と気丈に言い放ち、相当な難産を経て智恵美を出産しているのも、礼子を思い出させる。
母親の歳子は舞台本番中にチエミに授乳するところを披露
ただし、礼子が産後まもなく亡くなったのに対し、歳子は産後もステージに立ち、「チエミを楽屋に寝かせて、時間がきたらオッパイをふくませる。時には、チエミを抱いたまま舞台に上がり母親がわが子にお乳を与えたり、おぶい紐で背負ってセリフを言うなどリアリティーな(原文ママ)芝居を見せることもあった」という(評伝より)。言ってみれば生まれたときから芸の世界にいたチエミが、その道に進んだのはごく自然だったのかもしれない。
象徴的なエピソードがある。それは、歳子が柳家金語楼の女房役で舞台に出ていたとき、4歳だったチエミが金語楼に「あたいもお芝居にでる」「『支那の夜』を歌うの」と目をキラキラ輝かせ、本気で言ってのけたこと。ちなみにこの舞台には、後にチエミがモノマネをすることになる笠置も出演していたという奇妙な縁もあった。