65歳の男性は大学の理系学部を卒業して社会に出たが、勤めた会社はどれも長続きしなかった。最初に父が逝き、最愛の母の介護を機に、仕事を辞めた。両親他界後は魂が抜けたようになってしまい、鬱状態に。親が残した資産はみるみる減っていく。これから自分はどうやって生きていけばいいのか。思案した男性が乗り切るために編み出した考えとは――。

働かなくても両親は「働け」と言わなかった

都内に住む川越彰さん(仮名・63歳)は、4年前まで、自宅で母親の介護を担っていた。父親は15年前に他界。父親の介護は、母親が行っており、父親亡き後、一人っ子である川越さんが、母親の介護を担当した。

川越さんは学生の頃から、コミュニケーションを取るのに苦労をしてきた。悪質ないじめを受けた経験はないが、いつも周囲からは浮いた存在だったという。友達が少なかった川越さんは、小学校、中学校、高校のいずれでも、休み時間になると読書をして時間をやり過ごすような少年だったという。

大学は理系学部を選択。理系は就職に有利だと考えたからだが、指導教授からは就職先の斡旋を得られず、自分の力で就職活動を行うことになった。川越さんなりには就活を頑張ったが、もともとプレゼンテーションのように、自分をアピールする行為を苦手としていることもあってか、希望する企業からの内定をもらうことはできなかった。その結果、川越さんは新卒ながら、派遣社員として社会に出ることになった。

派遣社員として社会に出た川越さんだが、一番長く続いた会社で3年ちょっと。早いと半年くらいで仕事を辞めていた。途中、アルバイトをしていた時期もあったという。

幼い頃からおとなしく、人にも気を使うタイプだった息子のことを、両親は心配しながらも、温かい目で見守ってくれた。派遣社員を辞めて、しばらく自宅にいた時にも、「働け」と言われたことはなく、その後、契約社員やアルバイトを転々としていても、「正社員になったらどうか」と言われたこともなかったという。

そんな両親のことが大好きだった川越さんは、父親に介護が必要になったときは、契約社員として働いていたにもかかわらず、仕事が終わると急いで自宅に戻り、母親を精一杯手伝った。父親を介護していた期間は、プライベートな用事はほとんどあきらめていた。

その後、父親を見送って数年が経ち、今度は母親に介護が必要になった。父親の介護の時には、メインの介護は母親に任せていたが、今度は迷うことなく、仕事を辞めた。この時点で川越さんは、40代半ばを過ぎていた。

手押し車を使用して歩くシニア女性
写真=iStock.com/SetsukoN
※写真はイメージです

母親の介護は10年を超え、介護を終えた川越さんは、50代の終わりに差し掛かっていた。

「母親の介護をしていたときは、介護が大変でも穏やかな時間を過ごせた感じでした。自分にとっては、幸せな時間だったと思います。僕が介護をすることについて、母も初めは抵抗を感じていたようですが、介護に慣れてくると、『いつも、ありがとう』と言って、よく涙を流していましたね」

母親の介護をしていた時のことになると、それまで口が重かった川越さんが、突然饒舌に話し出すほど、川越さんにとっては「人生でもっとも穏やかな時間」だったようである。