野村監督の指導法の極意
ただ、名将・野村のこういった強烈なボヤキは、アマ時代に叱られ慣れていないエリート選手だと不貞腐れ、逆効果になるケースも多々あったのも事実だ。指揮官自身もテスト生からの叩き上げ。結果的に田畑の反骨心と物怖じしない性格に野村の指導は合った。
本人も「こんなに勝っていいんでしょうかねぇ……」なんて戸惑う快進撃に、ノムさんも「田畑がおらんかったらと思うとゾッとする。ホンマ取っておいてよかったな……」と最大級の賛辞を贈る。
その恩師からの監督推薦でオールスターにも初選出。田畑は第3戦の地元・富山アルペンスタジアムでの凱旋登板を実現させた。3番手として名前がコールされると球場全体を揺るがす「田畑コール」に、興奮したスタンドの観客はウエーブを繰り返した。
1年前にヤケ酒を食らっていた男は、まさに郷土の英雄になったのである。当時の『週刊ベースボール』インタビューで、「僕はマウンドで、ボーッとして投げてるんですけど、これは相手に『あいつ、何考えてんだろ?』と思わせるためなんですよ(笑)」なんて笑う田畑は、「野村再生工場」についても聞かれ、こう答えている。
「野村監督は、僕も含めて自分で取ってきた選手には必ずチャンスを与えるじゃないですか。で、一度使ってみてダメでも、もう一度、というように何か、いいものが一つでも出てくるまで我慢してくれるんですよ。僕の場合は、そういう野村監督の忍耐力によって、力を発揮できるようになったのではないかと思います」
「野村再生工場」の最高傑作
さらに小谷正勝投手コーチ、抜群のリードで引っ張ってくれるキャッチャーの古田敦也、調整法のアドバイスをくれた吉井理人と新天地での出会いにも恵まれた。
ヤクルト1年目は12勝を挙げ、2年目の97年は26試合で15勝5敗、防御率2.96というエース級の成績を残してチームの日本一にも貢献。古田とは最優秀バッテリー賞を受賞した。ローテ投手の自覚と責任から酒の量も減ったが、好投した翌々日だけ、自分へのご褒美として多めに飲むのがささやかな楽しみだ。
移籍時1240万円だった年俸は7300万円まで上がり、ドラフト10位から日本一チームの先発陣最高給にまで登り詰めた。
しかし、だ。「ラッキーすぎて、この後が自分でも怖い」とまで言った野球人生の絶頂期は長くは続かなかった。最多勝争いを繰り広げた97年途中から、田畑はすでに右肩に違和感を覚えていたのだ。翌98年の春季キャンプでノースロー調整するも調子が上がらず、6月21日の中日戦では患部の痛みが限界に達し、自ら降板を申し出た。検査の結果、右肩関節に仮骨ができ、それが投げる度に関節を刺激する「ベネット病変」と診断されてしまう。
前々年は177回、前年は170回3分の1と投げまくった代償は決して小さくはなかった。その後、ヤクルトでは右足首の手術もするなど故障に悩まされ、近鉄、巨人と渡り歩くも、右肩が回復することはなく2002年限りで現役引退した。
田畑の通算37勝のうち27勝は、ヤクルト移籍後2シーズンで記録したものである。野村克也が監督として最後の優勝、日本一に輝いた97年、その中心にいたのは確かに背番号39だった。
ドラフト10位右腕・田畑一也。その男、「野村再生工場」の最高傑作である。