こうして打たれ強くなった

そういうことを平気で言っていたらどんな報いがくるかをわかってもらわないと、そういう発言は減りません。彼らは本当に無知と鈍感さから言っていますから、真に受ける必要はありません。無責任で想像力のない問いに「産んだんですが……生まれてすぐ亡くしまして……」と言ってやろうかと思ったこともあります。ケンカの方法を学んだのは、別に学びたくて学んだんじゃなくて、降りかかる火の粉を払うために、余儀なく学ばざるをえなかったのです。

そういう場面に何度も遭遇して、うまく言い返せなくて「クソ! あのヤロー、あのときこう言い返せばよかった」と、あとでジワッと腹がたつこともよくありました。これまでの経験でわかったのは、差別発言は、たいていパターンが決まっているということ。だから事前に対策ができます。「これで来たらこれで返そう」と。予想がはずれることは滅多にありません。差別者は想像力が乏しく、凡庸なことしか言いませんから、たまにははずしてくれよと思うくらいです。こう来たらああ返すとか、こんなふうにフェイントをかけるとか、いろんなやり方を想定して、予想どおりの展開になると「ああ、来た来たー! 待ってましたあ」みたいなものです。

そうやって場数を踏んできたので、言い返せるようになりました。「上野千鶴子」が一日でできあがったわけではありません。打たれ強くなったのは、わたしがそういう場面にたくさん直面してきたからです。誰が好きで打たれ強くなりますかいな。

腕を組む女性
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エネルギーになったのは邪気

言われっぱなしにしないで、次はこうしようと思えたのは、やっぱり怒りがあったからです。それといくらかの邪気、つまり邪な気持ちです。オヤジ転がしがおもしろかったというのもいくらかはあります。

ネット界では「論破」が流行っているそうですが、いくら論破しても相手が納得するとは限りません。たとえば、仏教徒とキリスト教徒が教理問答をしてどちらかがどちらかを論破したとしても、相手の信仰はゆらぎません。わたしは「日本で一番論争に強い女」と呼ばれましたが、論争というのは論敵に対してではなく、聴衆に対してするものです。

だから相手にとどめを刺す必要はないんです。聴衆に相手の論旨の破綻や愚かさが見える化するように、もてあそぶ。イヤなやつかもしれませんね。でも勝負を決めるのは聴衆ですから。ただしそういう目に遭ったオッサンたちからはあとで怨まれました。彼らは面と向かって批判されるより、コケにされるほうが(とりわけ若い女に)ずっとプライドが傷つきますから。そのオッサンたちからは二度とお呼びがかからなくなります。