父親の死

母親は、兄には好きなものを選ばせるのに対し、山口さんには選択権を与えなかった。

「例えば兄の誕生日プレゼントは兄の好きな物を買ってもらえるのに対し、私は母が必要と思うものを与えられました。習い事、部活動、進学、アルバイト、就職などに関しても同様です。でも、私に期待しているわけではありませんでした」

小学生の頃、山口さんの両腕の内側にはたくさんの歯型がついていた。自分で自分を噛む“自傷行為”だった。

「気がつくといつも噛んでいました。母から受けるストレスを噛むという行為によって解消していたのでしょうか。私は物分かりの良い“いい子”でした。そうでないと母に無視されるのです。母に無視されることが何より怖くてたまらなかった私は、“いい子”でい続けるしかありませんでした」

母親は山口さんが中学生になった頃から、父親に対する不満をぶつけてくるようになった。

「母は私に、『あなたが成人したら離婚するつもりでいる。今はあなたのために我慢している』などということを、毎日口癖のように吹き込んできました。そしていつしか、『私が母を守らなければ』と思うようになっていたのです」

やがて山口さんが高校生2年になった頃、父親に微熱が続く。長い間風邪薬を飲んでいたが、肺炎を起こしたため病院を受診すると、肺がんのステージIIだった。父親はすぐに手術を受け、3カ月で退院。しかし1年後に再発してしまう。再発後は入退院を繰り返しながら再手術や放射線治療を受けたが、最初の発覚から約4年で亡くなってしまった。

胸部レントゲンの写真
写真=iStock.com/da-kuk
※写真はイメージです

父親52歳。母親は47歳、山口さんは20歳だった。

母親の変貌

一方母親は、父親のがんが発覚した途端、一夜にして病気の夫に寄り添う献身的な妻へ変貌を遂げた。

母親は父親の看病のために父親の病室に泊まり込み、病院から仕事に通った。兄は大学入学を機に一人暮らしをしていたが、高校生だった山口さんは母親の妹の家に預けられた。

やがて母親は親戚や近所の人から、「献身的な妻」と称賛され始めると、自分でもあちこちで看病の大変さを話して回る。

「母は、私の存在など忘れたかのように、仕事と看病だけしていました。まるで悲劇のヒロインです。完全に自分に酔っていました……」

しかし父親が亡くなると、母親の関心はたちまち山口さんに向けられた。母親は短大を卒業した山口さんを、自分の口利きで金融系の会社に入社させ、門限を20時と定める。1分でも遅れれば内鍵をかけられるため、会社の飲み会も途中で帰らなければならなかった。