幸せになろうとして頑張ったのに
言語化の観点でこのシステムを捉え直してみると、本当に典型的に孤独になる言語化を体現しています。悲しいのは、この女性はあくまで幸せになろうとして、必死ですごくなろうとして、認められようとして、結果的に孤独に向かっていったことです。順を追って見ていきましょう。
まず目につくのは、「尊重の言語化」が全くできていないことです。尊重の言語化とは「あなたの言葉」を知ろうとし、仮にわからなくとも尊重しようとすることです。これは、共生の言語化の前提となる「違い」を見つけたときに必要になります。
今回で言うと「私のやり方と違う仕事の仕方」を見つけたとき、彼女には選択肢があります。「お互いが一緒にやっていける新しい言葉を作る」か、相手の世界を尊重するか、あるいは自分の言葉で相手の言葉を塗り潰してしまうかです。
彼女が選択したのは最後の一つでした。
「自分はすごい」を守るために人の言葉を潰す
一緒に言葉を作ることのできない人は、相手の言葉を徹底的に破壊します。「なんでそんなやり方するの?」「馬鹿」「ちょっとでも改善を考えたことないの?」「よくこれで今までやってこれたね」などと、相手の持つ「仕事のやり方」という言葉、その意味を破壊していきます。
「なんでも意見を言ってね」はとんでもない嘘です。
人は、自分の言葉を破壊する人には、だんだん自分の言葉を共有しなくなります。自分の言葉とは、自分の世界そのものです。それを壊されれば壊されるほど、自分が何をよいと感じ、何に怒り、何に悲しむかといったことすらわからなくなってしまいます。自分がなくなっていくこと、これほど恐ろしいことはないのです。
日常的に言葉を壊された人が「意見を言ってね」と言われても、恐ろしいだけです。実際、無理矢理意見を言わされればどれもこれも切って捨て、いっそ切って捨てるために聞いているようでさえあります。切って捨てるたび「やはり自分はすごい」という世界が強固になるからです。
その結果、当然ながら「一緒に」言葉を作ることはありません。いつでも、意見が違うときには、自分が持っている言葉を相手に使わせようとします。「仕事のやり方」とはこれが正解であり、それを選ばないのは間違っているからです。
でも、もしかしたら文章で整理するのが得意な人と、図解するのが得意な人とでは、仕事の仕方が違うかもしれません。後者の人に、むりやり文章のみで整理した書類を作らせると、かえって効率が落ちることもあるでしょう。仕事の目的が共有できているからといって、仕事の方法を同じにする必要は必ずしもありません。