日テレには「同情を禁じ得ない」

多くの社員を抱え、組織を続ける上で、真相が明らかになっていない時点で、安易に責任を認めるほうが、かえって無責任である。そうした理屈も成り立つし、実際、日テレが、もし謝るとしても、誰の、何に対して、どうするのか。

少なくとも芦原さん自身が、日テレどころか、誰も名指しで非難していない以上、謝罪のしようがない、との考え方は、ありえる。

ここで、日テレを擁護したいわけでは、まったくない。

あるいは逆に、日テレに向かって「人としてどうなのか」といった、道徳の面で異を唱えたいわけではないし、私の抱いた「冷たすぎる」との思いは、感想にすぎない。

それよりも、完璧すぎるコメントを出さざるを得ない日テレに、逆に、同情を禁じ得ないのである。同社は、芦原さんの死に対してだけではなく、今回の事態に対して、いかなる感情も持つ余地がないからである。

ネット社会における「組織の限界」

このドラマにかかわった人だけではなく、日本テレビで、あるいは、日本テレビと働く人の誰も、芦原さんの死を望んだわけではない。それどころか、こうした最悪の結末を招くなどとは、夢にも思っていなかったのではないか。

できることなら、ひとりの人間の思いを率直に打ち明けたい。芦原さんに向かって謝りたい。そう願う人も少なくないのではないか。

しかし、そういった行動は、誰にも許されない。

もし、ひとりひとりが自由にモノを言ったり、動いたりすれば、その時点で、組織は崩れてしまうからである。正確に言えば、崩れてしまうのではないかと、警戒しているからである。

その背景には、まさに日テレが2つめのコメントで懸念した「関係者個人へのSNS等での誹謗中傷」がある。

日テレの関係者の誰かが、実名にせよ匿名にせよ、あるいは、庇うにせよ非難するにせよ、その発言をした途端に、猛烈な誹謗中傷に晒されるだろう。実名はもちろんのこと、匿名であれば特定されるまで追いかけられるし、肩を持てば社畜呼ばわりされ、批判すれば無責任だと言われかねない。