田沼による画期的な構造改革「商業重視と流通課税」

元禄期以降、幕府は財政の悪化に対応し、まず荻原重秀が出目を狙った元禄改鋳を行い、次いで正徳期には新井白石主導による緊縮財政、そして享保期には吉宗の新田開発と年貢増徴など、さまざまな財政立て直し策がとられてきた。それぞれ一時的には効果があったものの、根本的な解決には至らず、財政悪化は慢性化していた。

岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)
岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)

そこで意次は吉宗時代の倹約・歳出抑制策は継続しつつ、成長著しい商業や金融業に課税して幕府の収入を増やすという政策を打ち出した。具体的には、商人たちの業種や商品ごとに幅広く株仲間を公認して、その代わりに運上金または冥加みょうが金を納めさせた。

株仲間は、吉宗時代に「米価安の諸色高」と言われた物価高を抑えるため、商人たちに特権を与える代わりに物価統制に従わせる狙いで公認したものだが、意次はより多くの業種株仲間を結成させ、それを利用して課税することにしたのだ。田沼時代に公認された株仲間は、両替商や質屋、菜種問屋、綿実問屋、油問屋、酒造、さらには飛脚、菱垣廻船問屋など幅広い分野に及んでいる。

商人たちの「株仲間」を認め、課税して幕政増収を狙った

田沼時代の経済政策の古典的研究書である『転換期幕藩制の研究』(中井信彦著)によると、大坂では宝暦末年(1764)から安永年間(〜1781)までに、幕府が公認して冥加金を上納させた株仲間が127にのぼったという。

株仲間からの課税金額は幕府財政全体から見れば、それほど大きいものではなかったが、年貢以外の収入源を広げようという意図があったことは明白だ。しかもそれは単に「増収策」という次元にとどまらず、米中心の経済から商品流通の発展という変化に対応した構造改革政策だったという点に、その意義がある。

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これは他の政策にも共通する視点だ。一例として印播沼干拓事業がある。同事業は一般的には新田開発が目的と理解されているが、実は“流通革命”の狙いも込められていた。北方や太平洋側からの物資を船で江戸に運ぶには房総半島の外側を回り込む必要があるが、意次は印播沼の干拓と同時に幹線運河を造成して流通経路を大幅に短縮することを考えていたという。計画は実現しなかったが、意次が流通を重視していたことを表している。

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