作家 池井戸 潤
1963年、岐阜県生まれ。慶應義塾大学卒業。98年に『果つる底なき』で江戸川乱歩賞を受賞、作家デビュー。2010年には『鉄の骨』で吉川英治文学新人賞、昨年は大企業に挑む中小企業の人間ドラマを描いた『下町ロケット』で直木賞に輝く。金融、精密機械、建設などの業界で奮闘するビジネスマンを人間味豊かに描くエンターテインメントに徹した作風が人気。そのほか、主な作品に『空飛ぶタイヤ』『シャイロックの子供たち』など。最新作『ロスジェネの逆襲』が大好評発売中。
午前11時過ぎ、お掃除ロボットが仕事を始めると、執筆を中断して昼食へ出かけます。円盤型のそれが足下にまとわりつくように掃除するので邪魔しないようにって(笑)。それに贔屓の定食屋の焼き魚、これが絶品でつい通っちゃう。
このお店を含め、僕の行きつけは数軒しかない。新規開拓はするけれど、残念ながら“勝率”は1割くらい。皿にカイワレ大根が1本残っているのを見て、「お野菜はお嫌いですか?」と嫌みを言うフレンチとか、ベルトコンベヤみたいに次々と機械的に料理を運んでくるだけの温泉旅館とか。偉そうな店、人間味のない店は嫌いです。
僕が店に求めるのは、味だけではありません。料理をする板前さんやお店のスタッフと話を交わしたいんです。たとえば、「この食材は◯◯産だよ」「今がちょうど旬です」などと教えてもらう。そんな何気ないコミュニケーションが料理の“底味”になるっていうのかな。丁寧にもてなされている感じがして、いい気分にもなります。
先日、ある店で鍋料理を頼んだときのこと。若い板前さんが目の前で具材を鍋に投入しながらあれこれ説明してくれたんです。「このワカメ、沸騰した鍋に入れると、ほら茶色から鮮やかな緑色へ。潮の香りがするでしょ」って。僕が、「お、詩人だね」と言うと、「あ、わかります? 実は『小説すばる新人賞』に応募したこともあるんですよ」と板前さん。僕が小説家だと気づいていなかったけれど、そんな愉快なやりとりが味に彩りを添えてくれます。
ゴルフが趣味で、レッスンプロに指導を仰ぐこともありますが、理論を明快に教えてくれる人がいる一方、「バーンと打て」「やればできる」と根性論に走る人も。厨房に立つ人もレッスンプロも、同じ職人。ぜひ説明責任を果たしてほしい(笑)。
その意味で上の2軒は、僕が太鼓判を押します。「儘や」はおそらく日本で唯一「チュクミ」(豆もやしとイイダコの辛味料理)を出す店。ときどき無性に食べたくなるんです。おかみさんとの会話も心地いいしね。
「寿司処 日本」は、銀座コリドー街の地下にある家族4人で切り盛りする老舗。隣にライブハウスがあるのに、店内はしんと静寂に包まれた独特な空間です。政治家や企業の管理職、文壇関係者が主な客層ですが、昨年僕が直木賞受賞後に訪れると誰からともなく拍手をしてくれた。そんな家族的な温かみのある店です。実は、昨日も一昨日も行きました。最新刊『ロスジェネの逆襲』にもこの店が出ています。企業小説の場合、舞台は、社内か自宅か飲食店に限られます。飲食店もありきたりな設定になりがちですが、このお店のおかげで作品に少し味が出せたかな。