作家 黒木亮
1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒業。カイロ・アメリカン大学大学院修士。銀行、証券会社、総合商社に勤務し、国際協調融資など数多くの案件を手がける。2000年に『トップ・レフト』で作家デビュー。以後『巨大投資銀行』『トリプルA』など数々の経済小説を発表する。最新刊は“鉄のパイオニア”西山弥太郎(川崎製鉄創設者)の生涯を描いた『鉄のあけぼの』。早大では競走部に所属し、瀬古利彦らとともに箱根駅伝に出場。その経験と自らの生い立ちは『冬の喝采』に綴られている。ロンドン在住。
私は銀行員時代に赴任して以来、作家になってからもずっとロンドンに住んでいます。日本には年に数回仕事で帰ってくるものの、1回の滞在は3週間ほど。時間も限られている中、大事な人との会食が多いので、毎食が最後の晩餐のつもりで厳選したお店へ行くようにしています。
「レストラン キノシタ」は、私の早大競走部の後輩である金哲彦君(マラソン解説者)のお兄さん、木下和彦さんがオーナーシェフを務めるお店です。競走部のマネジャーをしていた女性に紹介してもらったんですが、本格フレンチとしては値段もリーズナブルで、とても気に入りました。高くてうまいのは当たり前。私がレストランを選ぶ基準は「安くて味も雰囲気もいいお店」なんです。
ここは店内も落ち着いた雰囲気で、ゆっくり会話ができるのがいいですね。私は大学1、2年の頃、代々木上原に住んでおり、競走部の中村清監督の自宅も千駄ヶ谷だったので、このエリアには親しみがあるんです。近所を歩いていると、陸上の苦しい練習の日々をほろ苦くも懐かしく思い出します。激しい練習の後は、よく焼き肉食べ放題の店にいきました。千駄ヶ谷の「ホープ軒」も思い出の店。中村監督が練習後に食券を渡してくれて、よく食べにいきました。
昔は「質より量」の食生活でしたが、いまは繊細な味の料理が好みです。ロンドンに行ってからワインにも凝りだして、ほぼ毎晩飲んでいます。ワインに合わせて料理を選ぶことも多いですね。レストラン キノシタが素晴らしいのはよいワインを揃えているところ。あまり飲まない人と来ても、グラスやハーフボトルなどで頼んで、前菜で白、メーンで赤というふうに堪能しています。
もう1軒は、東大前にあるおでん屋「呑喜」。今年上梓した『鉄のあけぼの』の取材で行ったのが最初でした。主人公である川崎製鉄(現JFEスチール)初代社長の西山弥太郎さんが旧制一高時代に通っていたという老舗です。西山さんは、末端の工員1人ひとりにも必ず帽子をとって、「やあご苦労さん。しっかり頼みますよ」と挨拶するような人だったといいます。当時の川崎製鉄は給料も安かったんですが、それでも西山さんの理想に共鳴して、みんな汗水垂らして働いた。元社員の方々は、いまでも西山さんと働いたことを誇りに思っています。こんな経営者はなかなかいません。感動的なエピソードの数々に、胸がいっぱいになって涙を流しながら執筆しました。
年季が入ったカウンターに腰掛け、関東風の濃いダシ汁のおでんを前に、「ここで西山さんが飲んでいたんだな」と思うと、感慨もひとしお。こみ上げてくるものがありました。