立場上、清少納言をこき下ろす必要があった
『紫式部日記』に書かれた清少納言批判は、その辛辣さにおいて有名ですが、紫式部には立場上、清少納言をこき下ろす必要がありました。
紫式部が宮仕えに出た時期は、皇后定子が第一皇子を遺して崩御し、5、6年が経った頃でした。中宮彰子にはまだ皇子誕生の兆しがなく、『枕草子』によって、定子後宮の華やかさを懐かしむ空気が巷に漂っていたと思われます。彰子もまた、一条天皇の心をとらえた定子のことを意識していたでしょう。彰子の皇子出産を願う道長が定子後宮の残影を打ち消すために、『源氏物語』作者として評判高い紫式部に目を付けたとすると、紫式部の使命は定子サロン文化を標榜する清少納言を叩くことでした。
同じ立場の女性としてやりきれない思いを抱いたのではないか
清少納言批評の中で、「風流にほど遠い折でも無理に感動するものを求めているうちに、いつのまにか浅はかなさまになってしまう」と書いている箇所は、『枕草子』が主家没落の中で明るい面のみを書き続けたことを指していると見られます。紫式部は『枕草子』を読んで、何を思ったのでしょうか。
漢才を武器に男性貴族たちと対等に渉り合い、宮中生活を謳歌していた清少納言も、歴史の波に翻弄され定子サロンと共に消えてしまいました。紫式部はそんな清少納言の生き方に対して、同じ立場の女性としてやりきれない思いを抱いたのではないでしょうか。彰子サロン女房としての役目を越えて、紫式部自身の個人的な思いが清少納言批判をより辛辣にしたと考えます。