昭和天皇は「私が悪い」と繰り返された
さて、木下氏から上奏書と起訴理由書を差し出された昭和天皇であるが、「汚職といえば、陛下の最も忌み嫌われる問題であるから、陛下はすぐ裁可の印をお捺しになるだろう」――そんな木下氏の予想は大きく外れた。「非常にご当惑の御態度をお示しになった」後、起訴理由書を繰り返しご覧になるばかりで、なかなか捺印しようとなさらなかったそうだ。
しばらく後、ようやく捺印された書類を木下氏がいただいて、待っている内閣書記官に一刻も早くそれを渡そうと思って退出しようとしたその時、昭和天皇は彼をお呼び止めになった。何か別の御用がおありなのだろうかと思った木下氏に対して、昭和天皇はただ一言、沈痛なお声でこうおっしゃったという。
「わたしが悪いのだよ」
また、昭和天皇はその直後にお部屋の縁側にお出になって、悪いのは自分なのだという内容のお言葉を木下氏相手に繰り返されたらしい。
「どうすれば政治家の堕落が防げるのか」とお嘆きに
「非常によく晴れた秋の日暮、夕陽がお庭の松に照りそっていたが、天を仰いで、おっしゃるには、わたしが悪いのだよ、どうすれば政治家の堕落が防げるであろうか、結局わたしの徳が足りないから、こんなことになるのだ。どうすればよいと思うか、とお尋ねになる」――木下道雄『宮中見聞録:忘れぬために』(新小説社、昭和43年)126ページ。
木下氏のこの回想から、昭和天皇が捺印をお躊躇いになったのは、自らの「不徳」のせいで政治家を汚職に走らせてしまったとお思いになったがゆえのことだと拝察できる。
最初の一言を聞いた時点で「われわれの仲間の犯したあやまちが、かほどまでに、陛下のお胸を痛めるのか」と申し訳ない気持ちになっていた木下氏は、もはや「あふれる涙を抑えて、ただ無言でお室を退出」するほかなかったという。
木下氏は後年に至るまで「秋の非常によく晴れた夕暮、空を仰ぐと」しばしばこの出来事を思い出したそうだ。よほど印象深い光景だったのであろう、彼は同様の文章を『忘れ得ぬこと』(憲法の会、昭和40年)、『天皇七拾年:天皇陛下皇后陛下御訪欧記念』(国際情報社、昭和46年)などにも掲載している。