誰も「手作り」を要求していない
いま、「要求されているのではないか」と書いた。
では、「要求している」のは、誰か?
誰もいないのである。
昭和の頃のようにお姑さんが小言を並べるわけでもなければ、上戸彩さんが心配しているような学校の先生のチェックがあるわけでもない。
ほかにも、「夏場は食中毒の心配があります」と指摘する声もあり、「手作り」にも、当たり前とはいえデメリットがある。
パックンの芸名で知られるタレントのパトリック・ハーラン氏は、「出勤の前に母親が子どものお弁当をつくらなければいけないという考え方は捨てていいよ。買ってきたお弁当で十分です」と断言している。
「手作り=愛情」という見えない規範
それなのに、ここまで「お弁当幻想」が根強いのは、「手作り=愛情」とされる(見えない)規範があるからではないか。「コンビニで済ませる」との言い方に象徴されるような、一段低く劣ったものとして、購入する態度を見る傾向があるからではないか。
では、その規範や傾向は、なぜ、まだあるのか。
それは、ここまで見てきたような家事分担の著しいアンバランスと、ごく一部の「お弁父」の存在から来ている。
ほぼ全ての料理を妻が担っているからこそ、お弁当だけを作らないわけにはいかない、と強く思わざるを得ない。さらには、きわめて少数とはいえ、だからこそ目立つ「お弁父」に刺激されずにはいられない。
内側(家事負担)と、外側(キラキラした父親)、その2つの圧力にさらされれば、さらされるほど、手作り=愛情の思い込みは強くなる。
もちろん、手作りが愛情ではない、というわけでは、まったくない。