大凶作の年には18名が犠牲に
・大正元年 16名
上川郡東川村、美瑛村で、5名が喰い殺される事件が起きている。晩秋には士別朝日村で、4名が喰い殺された。
・大正2年 18名(樺太7名)
この年は北海道開拓史上最悪ともいわれる大凶作の年だった。
上川郡愛別村では、親子3名が自宅前でヒグマに襲われ死亡している。(この事件の加害クマが、前年の士別朝日村の事件を引き起こした可能性があることは、別稿で述べた)
また「北海タイムス」によれば、この年に日高の浦河管内で6名がヒグマによって死亡したという報告がある。
さらに樺太では、巡業中の活動写真隊7名が行方不明となっているが、ヒグマが多数出没していた栄浜付近であったため、全員が喰われたのではないか、という記事がある。こちらも詳細は不明である。
・大正3年 8名
「三毛別事件」の年には凄惨な事件が相次いだ
・大正4年 16名(樺太2名)
かの「苫前三毛別事件」が発生した年である。
三毛別事件のわずか2週間前にも、近くの浜益村で、14歳の少年が喰い殺される事件が起きるなど、凄惨な事件が相次いだ年だった。
・昭和3年 7名
昭和の初め頃には凶作の年が続いた。特にこの年、士別村温根別集落で、子連れの人喰いクマが出没し、測量隊を次々と襲うなど、負傷者が続出した。
・昭和7年 7名(樺太6名)
この年は樺太での被害が大きかった。紙パルプの需要増加により、急速に樺太の森林が切り出された。これによって棲み処を奪われ食物に窮したヒグマが凶暴化し、昭和に入ると人喰いクマ事件が続出するようになる。この年には北部の敷香、恵須取を中心に7名が犠牲となった。
このように見てくると、明治の終わり頃から人喰いクマの犠牲者が急増していることがわかる。