大坂城から命懸けの脱出

時計を慶長15年(1610)5月7日、大坂夏の陣による大坂城落城まで進めよう。城外戦で豊臣方は奮戦したが、何分にも多勢に無勢。大野治長は負傷して戻り、天王寺や岡山での敗戦も告げられた。それを受けて秀頼らが本丸に引き上げると、徳川への内通者が城に火をかけた。それを機に徳川方の軍勢が進撃し、二の丸が陥落する。

大坂城炎上
大坂城炎上 1663年絵図(写真=ニューヨーク公共図書館の写真コレクションより/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ここまできて豊臣系の将兵らは自害する者が続出し、一方、城から落ち延びる者もいた。そんな光景を千はつぶさに見ていたに違いない。秀頼も千を連れて天守に登り、そこで自害しようとしたが、家臣の速水守久に止められ、本丸北側の山里曲輪に移動して櫓に身を隠した。二十数名がしたがっていたとされる。

そのとき、午後5時ごろだったと伝わるが、大野治長は千と侍女たちを、護衛をつけたうえで城外に脱出させた。それは千を家康らの陣所に送り届け、治長が一切の責任を負うという前提で、秀頼と茶々の助命を嘆願するためだった。

しかし、すでに城内には火の手が回っており、千らの一行は本丸を出たところで立ち往生したが、徳川方の坂崎直盛に遭遇。修羅場をくぐり抜けた末になんとか無事に脱出に成功した千らは、本多正信に引きとられた。

鬼は家康ではなく、秀忠

千による秀頼と茶々の助命嘆願を受け、徳川方の陣営ではどうすべきか話し合われた。このとき、家康は千の無事をよろこび、秀頼親子の命を奪うことに躊躇する姿勢も見せたという。これに対し、助命を厳しく謝絶したのは秀忠だった。

「どうする家康」の最終回(12月17日放送)では、「秀頼さまと義母上の命だけはお助けください」と必死に哀願する千を、家康は「それはできぬ。戦いの種を残しておくことはできぬのだ」といってはねつける。千は家康に「おじいさまは鬼じゃ!」という言葉を吐くようだが、それは史実と異なる。

秀忠は、秀頼とともに自害しなかった千に対する怒りをあらわにし、「女なれども、秀頼とともに焼死すべきところに、(城を)出てきたのは見苦しい」とまでいい放ち、しばらく千と対面すらしなかったという(『大坂記』など)。

「戦いの種を残しておくことはできぬ」との強い思いを抱いていた「鬼」は、むしろ秀忠であって、それがパフォーマンスでないことは、しばらく千と会わなかったことからもわかる。大河ドラマで描かれるような感情論、すなわち父娘の涙の物語は、この冷徹な判断が求められた戦の場面では、けっして成立しない。