事件と不幸が連続した壮絶人生
その後も、千姫の周囲は穏やかとはいえなかった。大坂夏の陣の翌年、徳川四天王の本多忠勝の嫡男で桑名城主、忠政の嫡男の忠刻に再嫁したが、その年、「千姫事件」が起きている。千が大坂城から脱出する際、救出の手助けをした津和野藩主の坂崎直盛が、千を奪おうとしたのである。
救出した者に千を再嫁させるという約束を反故にされたため、といわれるが諸説あって定かではない。ともあれ計画は事前に露見し、屋敷を幕府に包囲された直盛は家臣に殺されたという。結果、坂崎家は断絶している。
翌元和3年(1617)、本多家は姫路(兵庫県姫路市)へ移封となり、翌年に忠刻の長女の勝、元和5年(1619)には長男の幸千代を生んだ。これでやっと幸せが訪れるかと思いきや、元和7年(1621)、幸千代は数え3歳で没し、寛永3年(1626)には夫の忠刻も、そして母の江も死没。勝とともに本多家を離れて江戸城に入り、出家して天樹院と名乗った。そのときまだ、数え30歳にすぎなかった。
その後、40年を生きて寛文6年(1666)2月に江戸で死去したが、30年の前半生の不幸は、たしかにドラマの千の悲しげな表情が象徴している。