権力を振りかざす人に共通する特徴

「どうして人間はこうまで他人に対して権力をふりかざしたがるのでしょう」

どちらかというと、哲学というより精神分析のほうに話が及びそうな面白い質問だね。さて、この質問に答えると、政治権力に対する哲学の限界を示すことにもなるのだが、まずはプラトンの第七書簡から始めよう。

このなかで彼は有名な「哲人王」について論じている。どうして一部の人間はあれほどまでに権力に執着するのかということは説明されていないが、権力を効果的に行使する条件については書かれている。プラトンの視点を借りて、質問に答えるとしよう。

この手紙で、プラトンは、政治的な野望を抱いていた自身の青年時代について語り、自分の考えを示している。彼は、他人を「統治」する前に、自分を「管理」することが大事だと考えた。つまり、君主にふさわしい人間になるには、まず感情を抑制できる賢人であり、哲学者である必要がある。さらに、プラトンは、権力の座についてから哲学を学ぶことも可能だと付け加えている。

「すなわち、私は独立して一人前になるやいなや、ただちに国家の公事に携わろうと考えたのです」(プラトン「第七書簡」山本光雄訳『プラトン書簡集』角川文庫)

もちろん、このいかにも理想主義的な主張を鵜呑みにするわけにはいかない。プラトンは、多くの権力者が抱いている現実的な動機、そう簡単には変えられない本当の動機に言及していないからだ。

哲学者プラトンの大理石像
写真=iStock.com/Nice_Media_PRO
※写真はイメージです

彼らは賢人ではない

プラトンの主張に戻ろう。権力の座を目指す前に、まず自分を「統治」する賢人になるべきだと彼は言う。だが、これを反転させてみよう。

賢人となり、知ること、知識を得て成長することに純粋な喜びを覚えるようになったら、もはや権力が欲しいとは思わなくなるのではないだろうか。もし、権力欲が残っているとしたら、内省や知性だけでは満足できないということ、まだ欲があるということ、つまり「賢人」の域に達していないということになるのではないか。

知の理論と権力の理論は、どうやら同じものではなさそうだ。知を愛することは本来、権力欲を否定するものであり、プラトンのような哲学者がこんなことを言うのは不思議に思えてくる。

権力との向き合い方についてプラトンが苦悩していた理由は、別の要因もあるのかもしれない(プラトンはシチリア島に行き、シュラクサイの王、ディオニュシオス二世の暴政に「助言」しようとしたが、思ったような結果を得られずに終わっている。彼のこうした経験も、この件に関係があるのかもしれない)。

さて、質問の回答に戻ろう。一部の人間、特に政治家と呼ばれる人たちは、なぜそこまで他人を支配したがり、権力に執着するのか、それは彼らが賢人ではないからだ。彼らが自分自身を「統治」しきれていないからだ。