「欠陥」を早々に自覚している
ついでだから、プラトンの提案を逆説的に採用し、こう付け加えたい。彼らが若いうちから権力の座を目指したがるのは、自分の奥底にある「欠陥」を早々に自覚しているからではないだろうか。欠陥とはつまり、彼らの抱える不安であり、本当の意味での賢人になることはできないだろうという予兆である。
権力欲の強い人とは、青年期に、自分をコントロールする自信をもてなかったことに由来するのかもしれない。だから、他人を支配しようとする。自分を抑えることができないので、他人を抑圧しようとする。それが彼らのストレス解消になっているのだ。
だが、この手の鬱憤晴らしは、多くの場合たいして役には立たず、支配欲はかえって増大していく。
もちろん、自制心と統治能力を併せもつ政治家も存在はするだろう(ドゴールやチャーチルあたりはその例と言えるかもしれない)。ただその場合、彼らが権力のなかに見いだしたのは他人を支配する力ではなく、現実や歴史を変えていく力だったのだ。
法と道徳は同じではない
「法を守らないことは、どんなときも例外なく不道徳なことでしょうか」
法を守らないというだけで反抗的だ、不謹慎だと決めつけることはできないが、たとえそれが不当なものであれ、お叱りを受けることは覚悟したほうがいいだろう。これは法をどう捉えるのかという問題だ。
だが、法は道徳と同じではない。法は一般的なものでしかなく、道徳は普遍的なものだからだ。法規というのは、特定の時代に相当数の人たちがともに生きるためにつくられたものでしかない。善と悪を区別する道徳は、すべての人、すべての時代にあてはまるものだ。
さらに言えば、善悪の判断は外から見える態度だけが基準となる。その行為の根底にある意図が善意によるものか、悪意によるものかは、行為者本人にしかわからない。だが、道徳は、むしろ、この意図の問題なのだ。あなたが法を犯したとき、それが善意によるものか、悪意によるものか、他人には判断できないのである。