論拠に乏しく、逆の命題を真としている
グラッドウェルの主張はシンプルで、「何かの世界で一流になりたければ、1万時間のトレーニングをしなさい。そうすれば、あなたは必ず一流になれますよ」ということなのですが、ではさて、これだけ大胆な法則を提案しているにもかかわらず、同書の中に示されている法則の論拠は、一部のバイオリニスト集団、ビル・ゲイツ氏(プログラミングに1万時間熱中した)、そしてビートルズ(デビュー前にステージで1万時間演奏した)についてはこの法則が観測されたというだけで、非常に脆弱です。
これはグラッドウェルに限ったことではなく、「才能より努力だ」と主張する多くの本に共通している特徴で、例えばデイビッド・シェンクによる『天才を考察する』では、「生まれついての天才」の代表格とされるモーツァルトが、実際には幼少期から集中的なトレーニング=努力を積み重ねていたという事実を論拠として挙げて、やはり「才能より努力だ」と結んでいるのですが、これはよくある論理展開の初歩的なミスで、実は全く命題の証明になっていません。まず、真の命題は次のようになります。
この命題に対して、逆の命題、つまり
を真としてしまうという、よくある「逆の命題」のミスです。
正しくは
という真の命題によって導出されるのは、対偶となる命題、つまり
であって、「努力すればモーツァルトのような天才になれる」という命題は導けません。
努力が技量に与える影響は分野によって異なる
では努力は全く意味がないのかというと、もちろんそうではありません。実際の研究結果はどうかというと、1万時間の法則が成立するかどうかは、その対象となっている楽器・種目・科目によることがわかっています。
プリンストン大学のマクナマラ准教授他のグループは「自覚的訓練」に関する88件の研究についてメタ分析を行い、「練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない」という結論を出しています。
具体的には、同論文は、各分野について「練習量の多少によってパフォーマンスの差を説明できる度合い」を紹介しています。
楽器:21%
スポーツ:18%
教育:4%
知的専門職:1%以下
この数字を見ればグラッドウェルの主張する「1万時間の法則」が、いかに人をミスリードするタチの悪い主張かということがよくわかります。「努力は報われる」という主張には一種の世界観が反映されていて非常に美しく響きます。しかしそれは願望でしかなく、現実の世界はそうはないということを直視しなければ、「自分の人生」を有意義に豊かに生きることは難しいでしょう。