ガラス張り設計の後始末は、すべて設備設計者に丸投げ
窓は、建物内に明るさをもたらす。同時に窓は、建物内に熱ももたらす。
熱は寒い冬にはありがたいが暑い夏ならご免こうむりたい。これは一般の人でも経験的に理解している太陽エネルギーの大原則である。
ところが建築の世界では、この大原則に則った設計がいつもなされているとは限らない。
窓がもたらす光のデザイン、ガラスが織りなす建築デザインばかりが優先されて、厄介な熱の対策は後回しにされている建築計画が山のようにある。ガラス面の多い住宅はもちろんのこと、ガラス張りの図書館、ガラス張りの病院、ガラス張りの駅舎といった「ガラス張りの○○」の多くは、かなりの割合でその疑いが強い。
「ガラス張りの建築といっても、いまどきは熱の悪影響を受けない高度な設計がなされているのでは?」
そう思われるかもしれない。
しかし現実は、その期待をあっさりと裏切る。ガラス張りの建築が室内環境をどのように整えているのかといえば、ほとんどは大規模な空調機器の絶え間なきフル稼働によってである。1部の先進的な取り組みを除いては、建物内に侵入した大量の熱は大量のエアコンを使って打ち消しているに過ぎないのだ。
そんなガラス張り建築の空調設計を数多く手がけている某設備設計者は、心の底からあきれ返ったようにこう言い放つ。
「あの人(建築家)たち、ほんっとに、なんっにも考えてないからね」
ガラス張り設計の後始末は、すべて設備設計者に丸投げなのである。
にもかかわらず、地方自治体などが主催する建築設計コンペでは、ガラス張り建築の設計案が最終選考までしぶとく残ったりする。
環境への莫大な負荷、竣工後の莫大な維持費、そういう懸念はひとまずおいて、ガラスという素材がもたらす明るさ、軽さ、希望、未来みたいなものがしれっと評価されるからだ。
地球温暖化対策、二酸化炭素排出量の規制、その手の議論はどこか遠い惑星で行われているかのような無神経さである。
“シーンとしての窓”と“機能としての窓”は別物
その昔、ある著名な作曲家は、何軒目かの自宅を新築する際、担当の建築家に次のような要望を出した。
「窓は“シーンとしての窓”と“機能としての窓”、この2つをきちんと切り分けて設計してください。シーンとしての窓は徹底的に考えてドラマチックな演出を。機能としての窓は光、風などのコントロールが細かく自在にできるように」
当時、実務担当の1人としてこの案件に参加し、いまは独立して自身の建築士事務所を構えている建築家のM氏。
彼は「窓を2つに切り分けて考えてほしい」という作曲家の要望に、自身の建築観が根底から揺さぶられるほど強い衝撃を受けた、と私に話してくれたことがある。窓についてそのような捉え方をする人に、それまで会ったことがなかったというのだ。
「恥ずかしながら、当時まだ20代だった私は窓を建築デザインの1部としてしか見ていませんでした。ガラスという素材をどのように扱えば自分がイメージする建築像に近づけられるか、それしか考えていなかったんです。
そんなとき、窓はシーンと機能を切り分けて考えてほしいという先生の要望はぐさりと刺さりましたね。いまだにそのひと言は、私が窓について考える際の指針になっています」
シーンとしての窓。
機能としての窓。
窓の役割が混沌としている現在、まずはこの2つをキーワードに住宅と窓の関係をイチから仕切り直してみてはどうだろうか。道路際の掃き出し窓もガラス張りの建築物も、この2つの視点で整理し直せば、もう少しマシな方向に改善できそうな気がしている。