光は入らない、風も入らない窓を本当の「窓」と呼べるのか
ここで1つの疑問が浮かぶ。
はたしてそのような掃き出し窓を、窓と呼んでもいいのだろうか。
1年中カーテンで閉ざされた掃き出し窓はほとんど壁である。光は入らない、風も入らない、そこから出入りする人もおそらくいない。そのような窓を、本当に窓と呼んでもいいのだろうか。
カーテンで閉ざされた掃き出し窓をもつ家は、建売住宅に多い。
このところわが家の近所は、大手デベロッパーによる宅地開発が花ざかりだ。新しく整備された街区を歩くと、道路から1~2メートルほどの位置に壁面が迫っている家にたびたび遭遇する。手を伸ばせば外壁に触れられそうなほど近い。そのような家の南面に掃き出し窓を設けている。早晩、明るい窓も暗い壁に変わるだろう。にもかかわらず……。
「私の家には大きな窓がついている」
壁のような掃き出し窓が生まれる背景を、ある50代の建築家は次のように推測した。
「ひと言でいえば固定観念でしょう。建物の南面には大きな掃き出し窓を設けるものだ――。設計側がその固定観念にしばられているためです。もしくは、設計するときに敷地や周囲の環境をつぶさに調べていないか、ですね。敷地の南側に道路があるなら、ふつうは採光や通風を別の方法でとるものです。
しかし、敷地をきちんと見ていない、あるいは設計する側に敷地周辺の環境を読み解く力が十分備わっていなければ、その方法も分かりません。機械的に区画された宅地に戸建ての模型をポンポン置いていくような設計をしているのであれば、なおのこと不可解な掃き出し窓は増えるでしょうね」
彼はそう話すと、「僕なら建物の東面にハイサイドライト(高窓)を設けて光を入れるけどなぁ」と、さっそく別の手立てを考えていた。
窓の少ない家、風通しの悪い家は湿気とカビの悪影響をもろに受ける
では、もう一方の当事者はどう思っているのか。
掃き出し窓をあけたらすぐに道路という家に住む人は、なぜその家を購入したのだろうか。
そのあたりの事情を聞いてみたい、と思ったのだが、なんとなく気が引けるのでやめた。
代わりに事情通に話を向けた。建築エコノミストの森山高至さんである。新国立競技場問題、築地市場移転問題など、業界の枠を超えて建築と社会経済の問題に切り込む孤高の才人だ。
本職はいまも建築設計業である森山さんに、カーテン閉めっぱなし掃き出し窓住宅に住む人たちの心の内を読み解いてもらった。
「日本のように高温多湿の国では、窓の少ない家、風通しの悪い家は湿気とカビの悪影響をもろに受けます。昔はそれが建物の不調、体の不調につながり、ひいては死に直結することすらありました。
その恐怖を乗り越えるべく先人が編み出したのが、南面の大開口、間仕切壁が少なく風通しのよい東アジア特有の間取りです。この形式は住宅の性能が劇的に向上した今でも、家づくりの知恵として脈々と受け継がれています。新しい住まいに求める要望として、日当たりの良さや風通しの良さを挙げる人が多いのは、その切実さを肌で感じているためでしょう」
たしかに日当たりや風通しの良さは、昔も今も家づくりの最重要テーマといえる。
ただ、現実の暮らしぶりはどうだろう。窓をこまめに開け閉めして室内環境を調整している家は、昨今とても少ない。暑くなれば冷房をつける。暗くなれば照明をつける。窓はずっと閉めたままだ。
交通量の多い道路際の住宅なら、なおさらそのような暮らし方になる。道路際の掃き出し窓は、いっそ最初からやめてしまったほうがよいのでは? 論理的に考えればそのような結論にいたるのではないか。