「訂正」に失敗した東京五輪
ところが、現在の日本人はこの訂正する力を失っている。東京五輪をめぐる混乱を思い出してみましょう。
五輪では夏の暑さが問題になっていました。東京都知事として五輪を招致し、多くの批判に晒された作家の猪瀬直樹さんは、五輪開催前にぼくと対談したときに「東京の夏は五輪に適している」と主張したことがあります。
どう考えても過酷な気候だと思うのですが、それでも「ほかの国も条件は同じだ」と譲らない。五輪はどんどん経費が嵩み、それも問題になりましたが、猪瀬さんはこちらについてもツイッター(現X)で最後まで「コンパクト五輪のはずだった」と主張していました。これほどわかりやすく訂正する力が失われた例もありません。
猪瀬さんには、『昭和16年夏の敗戦』という名著があります。太平洋戦争開戦前、日本政府は「総力戦研究所」というシンクタンクにエリート官僚を集めて日米開戦の帰趨をひそかにシミュレーションさせていた。答えは日本必敗だった。にもかかわらず、日本は戦争に突入してしまったという内容です。この歴史と東京五輪の強行は部分的に重なります。
「官僚型答弁」が横行するワケ
猪瀬さんは、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と言い換えてごまかす、日本的な組織体質をよく知っていたはずです。それでもなぜ訂正できなかったのか。
それはおそらく、猪瀬さんが市民を信頼できなくなっていたからだと思います。猪瀬さんも東京の夏が暑いことはわかっていた。経費が想定以上に嵩んでいることも知っていた。ただ、それをひとことでも言ったら、批判勢力からなにを言われるかわからない。いまの日本では、あるていど影響力のある立場になってしまったら、危機管理上、訂正しない人間にならざるをえないわけです。
これは政治家だけの話ではありません。岸田文雄首相は「聞く力」を標榜していますが、とてもその力が発揮されているとは思えない。でもそれは首相だけの話ではない。いまの日本人は全体的にその力がなくなっている。
「聞く力」は、相手の話を聞き自分の意見を変える力、つまり「訂正する力」でもあるはずです。けれども、訂正することができないので、聞くこともできない。
官僚型答弁が横行するのもこのことが理由です。官僚だけが悪いのではなく、日本社会全体で聞く力、意見を変える力がないのです。「最初に言ったことはまちがっていました」という説明ができない。そんなことをしたら徹底的に攻撃されて、自分たちの計画が潰されると、みなが警戒しあっている。