「空気に差した水」がまた「空気」になってしまう

ちなみに、『「空気」の研究』はいま読むと問題含みな本でもあります。刊行された当時、日本ではイタイイタイ病や自動車の公害が社会問題になっていましたが、山本は懐疑的でした。窒素酸化物は有害か無害かわからないし、カドミウムも有害か無害かわからないのだと記しています。

当時「カドミウムは無害だ」と主張し、実際にカドミウム棒を舐めた学者がいたらしいのですが、その話題に紙面を割いています。『「空気」の研究』は古典ではありますが、気をつけて読まなければなりません。

空気批判が空気になるとはいえ、山本の議論がなにも参考にならないわけではありません。

山本は「水」について興味深いことを述べています。盛り上がりに「水を差す」と言うときの「水」です。この国では、空気に水を差していたと思ったら、水を差すこと自体が空気になっていく。だからいつも空気と水が循環している――。そんな議論で彼の本は締めくくられています。

これはじつは当時の左翼に対する批判です。「かつては軍国主義の空気があった。左翼は戦後そこに水を差すようになったが、しばらくしたらこんどはその水が新しい空気になって、言論が左翼に支配されるようになった」という話です。

半世紀後も通用する重要な指摘

『「空気」の研究』は半世紀前の本ですが、これはいまでも通用する指摘です。メディアでちやほやされる知識人が現実にはぜんぜん力をもたない現状は、おそらくこの空気と水の逆説に関係しています。

空気に抵抗しなければいけない。ルールチェンジをしなければいけない。そう主張するひとは多い。けれども、この国では、そのような主張(水)がそのまま受け取られるのではなく、すぐに「そういう主張をするひとが現れた」という新たな空気の問題として理解されてしまう。つまり、「『ルールチェンジをしなければいけない』と発言するという新しいルールでゲームをするひと」という受け取りかたをされてしまう。

そうすると、こんどはその新たな問題提起に考えなしに追随するひとが現れてしまう。いくら水を差しても、すぐそれが新たな空気になってしまう構造があるわけです。ひらたく言えば、権力批判をしているひとこそ、空気を読むようになる構造がある。

これは重要な指摘です。空気は空気批判もすぐに空気に変えてしまう。日本の閉塞感の原因はそこにある。