秀忠に対面を許さない家康に意見して、秀忠に感謝された
鬼気迫る表情で康政は、家康の落ち度や誤解を言いつらねていった。懲罰を覚悟したうえでの言動だったろう。さらに、
「親子の間ですから、日常のことなら御譴責もあるでしょうが、秀忠様はゆくゆくは天下を治める方。そんな方が、弓矢の道において父君の、心にかなわない者であると世に示せば、人々のあなどりを受けるでしょう。これは御子の恥辱のみならず、父の御身の恥辱ではありませぬか」。
そう言いながら、ついに泣き出し、それでも秀忠のために弁明し続けた。そんな老臣の姿を見て、さすがの家康も気持ちがほぐれ、その翌日、秀忠に対面を許したと伝えられる。
この事実を知った秀忠は、「此度の心ざし、我が家の有らんかぎりは、子々孫々にいたるまで、忘るる事あるまじ」(『藩翰譜』)という自筆の感状を康政に与えたという。
やがて家康が幕府を開き、平和な時代が訪れると、「老臣、権を争うは亡国の兆しなり」と言って、康政は宿老の身ながら政治に口をはさまなかった。そして慶長11年(1606)、にわかに病を得て、59歳でその生涯を閉じたのである。