機内ラウンジは社交場のようだった
1954年の国際線就航時から、パンフレットには必ず着物姿の客室乗務員が登場する。DC-8機を中心に当時スチュワーデスとして国際線を多く乗務していた福田和生さんの話からも、これは決してPR用のものではない。
福田さんは、日本航空に1959年に入社した14期生で、同期20人とともに、DC-6BやDC-7Cのプロペラ機に乗った。多くの経歴は入社翌年に導入されたDC-8ジェット機での乗務だったという。福田さんは当時をこう振り返る。
「当時、欧州線では北回りと南回りがあり、それぞれローマとコペンハーゲンに1カ月ほど駐在して、『インターヨーロッパ』という欧州域内のみを飛ぶ乗務もありました。ファーストクラスのサービスの思い出は、前方のラウンジで社交場のようにお客さまが利用してくださったことです。ギャレーが近いので、お飲み物のサービスがしやすかったですし、トイレ待ちの方々もたばこをたしなまれたりして座っていらっしゃいました。お食事は座席でとっていただくのですが、ワゴンでサービスし、そのワゴンには伊勢エビや各種オードブルを載せていましたので、それは豪華な様子でした」
ジャンボジェット機に寝台が登場
その後、1970年に「ボーイング747ジャンボジェット」が導入され、空の旅に大衆化の波が押し寄せた。それでも、ファーストクラスのサービスは、群を抜いていた。当時のパンフレットでは、大きさを象徴する「空飛ぶ豪華船」や「The Garden Jet」などとの呼称もつけられていた。
ジャンボジェットのアッパーデッキにスカイスリーパーと称する寝台を設置したのは1978年のことである。
「日航ジャンボに、寝室を作りました」のキャッチでチラシが作成され、カーテンで仕切られた5台の寝台が並ぶ様子が紹介されている。ファーストクラス運賃に追加料金を取る形で予約を受けていた。その値段は、米国西海岸で3万5600円、欧州で4万2500円だった。