紫式部が生きた平安時代の宮中はどんな場所だったのか。古典エッセイストの大塚ひかりさんは「階級意識が非常に高く、嫉妬深い貴族ばかりだった。突出した文学の才能を持つ紫式部は女性貴族からやっかまれ、たいへん苦労したようだ」という――。(第2回)

※本稿は、大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

「源氏物語絵巻宿木(二)」
「源氏物語絵巻宿木(二)」(画像=徳川美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

このように『源氏物語』は作られた

源氏物語』は、今から千年以上前、1008年ころに成立した。

成立年が分かるのは、『源氏物語』の製本作業と共に、敦成あつひら親王(後一条天皇)の誕生記事が、『紫式部日記』に記されているからだ。後一条天皇の生年ははっきりしているので、おのずと『源氏物語』の書かれた時期も分かるわけである。

『紫式部日記』によると、『源氏物語』は、作者の紫式部と、女主人の彰子中宮を中心に、清書され、製本されていった。

出産後の彰子が内裏に還御する時期が近づく中、紫式部は夜が明けるとすぐに彰子の御前に伺候して、色とりどりの紙を選り整えて、物語の原本を添えては、各所に書写を依頼する手紙を書いて配る。一方では、書写したものを製本するのを仕事に明かし暮らしていた。それを見た道長は、

「どこの子持ちが、この寒いのに、こんなことをなさるのか」

と中宮に申し上げながらも、上等の薄様うすよう(薄く漉いた鳥の子紙)や筆、墨、硯まで持って来る。それを中宮は紫式部に下賜なさる。

すべては帝に興味を持ってもらうため

と、こんなふうに、『源氏物語』は、彰子とその父・道長をパトロンに、作者の紫式部を最高責任者として、彰子サロンを挙げての一大プロジェクトとして製作された。

娘を天皇家に入内させ、生まれた皇子の後見役として貴族が繁栄していた当時、娘のつぼねに天皇(東宮)の足を運ばせることは貴族の大仕事であった。サロンを盛り立てるために才色兼備の女房たちが雇われ、その一部は出仕前から書かれていたとされる『源氏物語』も、彰子サロンの評判を高めるべく、公達が足を運ぶよう、ひいてはミカドのお越しが頻繁になるよう、目玉商品として担ぎ上げられた。