「マトリョーシカ日本起源説」の起源は?
マトリョーシカ日本起源説はいつからささやかれていたのだろう。日本語では、1964年刊行の長谷川七郎『形と文様ロシアの民芸』に次のような文章が見られる。
19世紀の末、モスクワ郊外のアブラムツェヴォに領地をもつ美術工芸の保護者として著名なマモントワ夫人が日本の“入れ子”人形といわれる、つぎつぎにあけると第二、第三といったふうにより小さな人形がはいっているものを海外から持ち帰った。
マモントワはこの“入れ子”人形にロシア的性格をもたらして普及させるために古くからの人形玩具の中心地のザゴルスクのろくろ師ズベズドーチキンに形を、また画家のマリューチンに上絵を依頼した。
マトリョーシカ人形はロシア人の素朴さ、誠実さ、信じやすさ、善意を表現したものとして急速に普及し、1900年からは国外にも輸出されるようになった。[長谷川1964:107]
もともとはソ連で言われ始めた?
この文を書いた長谷川氏には、この本に先立って『現代産業美術』(東和書房、1941年)、『ソビエト繊維デザイン』(相模書房、1962年)といった著書がある。また彼は1957年、60年、64年にロシアへ視察に行っており、そこで入手したと思われるロシア語文献約70点を巻末に挙げており、このマトリョーシカ日本起源説も、そのいずれかの情報ソースを信頼し、確信をもって書いたものだろう。
1964年以前にソ連でマトリョーシカ日本起源説を唱えたのは誰か。セルギエフ・ポサードの住人で「真説マトリョーシカ」というサイトを運営するイーゴリ・ブリュム氏は、ソ連の作家ユーリー・アルバートが1961年の本『六つの金の巣』に書いた「おとぎばなし」がその後の日本起源説の元だと主張する。
ブリュム氏が自分のサイトに切り貼りしたアルバートの文章を見ると、確かに、アブラムツェヴォのマモントワ夫人が日本から入れ子人形を持ち帰り、それをもとにマトリョーシカを作らせたというくだりがある。
しかしこの本は長谷川氏の参考文献一覧には入っておらず、長谷川氏が一覧に入れたユーリー・アルバートの書籍『民衆工芸』(1963年)には、マトリョーシカは日本の「こけし」を見て作られた、とあるにすぎない。(http://artyx.ru/books/item/f00/s00/z0000054/st001.shtml 2023年閲覧)