入れ子七福神は蔵王産?それとも箱根産?

1979年発行の加藤九祚氏の編纂によるロシア美術案内『エルミタージュ博物館』には、研究者でありジャーナリストでもある小川政邦氏が「女の子になった福禄寿」を書いている。そこでは長谷川、大木両氏とほぼ同じ記述に加えて、入れ子七福神が東北の蔵王の産かもしれないという可能性を示唆している。

蔵王山東麓では「五つだるま」や「三つだるま」、また「七福神」「三福神」の入れ子細工が作られていたのである[小川1979:85―86]。七福神をはじめとする日本の木地きじ玩具については、本書第II部「日本篇――入れ子七福神を探して」で詳しく検討することにしよう。

さて、その後、自由な調査はおろか渡航も簡単ではなかったソ連時代に、おもちゃ博物館の七福神の入れ子人形を写真で確認し、それを箱根のものであると断定したのは小田原在住の作家・大南勝彦氏だった。

大南氏は1984年にソ連大使館広報部を通じておもちゃ博物館の七福神とマトリョーシカ第一号の写真を入手し、自身が子どもの頃に親しみ、戦時中に焼失した箱根七福神と同じものであると確信した。さらにその写真を持って箱根細工の関係者をまわり、おもちゃ博物館の七福神が箱根の湯本茶屋で作られたものであるとする論文を書いた[大南1984]。

日本とロシアのテレビ番組が広報役に

この論文は当時のソ連の広報誌『今日のソ連邦』に掲載されたもので、これに興味を持ったモスクワ放送が1990年に箱根で取材した様子をさらにNHKが取材して「ニュース21」で放送した。こうしてメディアが広く報道したことで、おもちゃ博物館収蔵の七福神が箱根の産であり、さらにマトリョーシカ誕生のアイデア源となったのではないかという説は、日本でもロシアでも広く知られるところとなった。

この後、日本ではより多様なマトリョーシカ日本起源説が飛び交うことになるが、それらの多くは前述のいずれかの引用である。独自の見解を示しているものもあるが、執筆者を特定できない非公刊物での発言であったり、土産物に添えられたカードであったり、インターネット上の無署名の投稿であったりするため、ここでは詳述しない。

ただ、これらも含めて1990年代までの日本におけるマトリョーシカ誕生に関する典型的な言説をまとめておけば、次のようになるだろう。