「不自然かどうか」で判断を
問題は、何が冗長かです。単に「ダブりだから」「だめという人がいるから」――ではなく、「通じやすいか」「不自然でないか」を軸に判断すべきだと思います。「字のダブりが気になるなら『犯罪をおかす』と一方を仮名にすればいい」という意見もあります。確かに「抱きかかえる」「日にち」など、ダブり感をなくす対処が好まれる語は少なくありませんが、「おかす」の仮名表記は一般的ではないように思われます。
さて、ある原稿で「犯罪を犯した疑い」という文言について聞かれた際、「決して間違いではありませんが、『犯罪の疑い』でいいのでは」と答え、その通りに直りました。許容範囲の重言なのかもしれませんが、対処のしようが全くないわけではないのです。
「楽観視」の「視」は必要?
【質問】
きっとうまくいく、と明るい気持ちで先を見通すのは……。
【回答】
楽観視する……31.7%
楽観する……47.5%
いずれも言う……20.9%
「楽観する」が「楽観視する」を上回りましたが、両方を使うという人を含めると「楽観視する」を許容する人が過半数に達しました。日本新聞協会の「新聞用語集」では「楽観視」を重複表現と見なし、「楽観(する)」と直すよう促しています。毎日新聞用語集も同様です。
ただし、近年は「楽観視」をとがめない新聞社や通信社もあり、一概に直すべきものとしない考え方が強くなってきているようです。口頭語としては、かなり前から使われている言葉です。国会会議録検索システムによると、「楽観視」の最初の例は1949年、第5回の衆議院本会議。「国内の不況は、この農業の金融恐慌から起ることを、政府はあまりにも楽観視いたしておるとしか考えられません」(竹山祐太郎衆議院議員)という発言が見られます。
「楽観視」は話し言葉では、少なくとも戦後すぐには、国会のような改まった場においても使われていたことが分かります。
重複表現と考えない新聞・通信社の見解は「慣用表現として定着した」「使用例が多い」といったものです。しかし、「楽観する」と言うことができる以上、「楽観視」とする必要がない、という考え方も有力です。似た言い回しに「客観視する」がありますが、こちらは「客観する」として使われることがごく少ないので、同列に論じることはできないでしょう。
アンケートの結果を踏まえても「楽観する」が多数派ですし、基本的な立場としては、従来通り「楽観視する」は退けたいと考えます。ただ、口頭語としての使用実態を考えると、地の文でなく、発言の中で出てきた場合にも必ず直すかどうかは迷うところです。