孤軍奮闘の果てに

2015年。七瀬さんが40代後半、義両親は70代、義祖母は90代になった。

義母は脳梗塞後、少しずつ動けなくなり、血管性認知症の症状も出始めていた。料理をしてくれていた義祖母にも認知症の兆候が現れ始め、検査を受けたところ、アルツハイマー型認知症と診断。まだ大抵のことは自分でできるが、入浴するときは不安なため、七瀬さんの見守りが必要だった。

MRI画像の一点をシャープペンで指して説明する医師の手元
写真=iStock.com/haydenbird
※写真はイメージです

同じ年、介護認定を受けたところ、義祖母は要介護2、義母は要支援2。仕事をしながら1人で2人を介護することが難しいと感じていた七瀬さんは、義祖母に施設入所を促したが、断固拒否。孤軍奮闘の日々が続いた。

看護師の管理職をしていた七瀬さんは、キャリアを手放したくなかった。朝4時に起きて夕食の下ごしらえを済ませ、夜は帰宅後に朝食の下ごしらえをした。夜勤もあるため寝る時間はほとんどなかった。夜勤明けで帰宅した後、ちょうど繁忙期だった夫に農作業を手伝ってほしいと言われて、一睡もせずに作業したこともあった。

養子は保育園に預けていたが、夜勤があるときは夫が世話してくれていた。

「夫も目いっぱい働いていたのは見ていてわかるので、断れませんでした。三男(養子)も小さいながらも私を手伝おうとしてくれていました」

しかし、長くは保たなかった。義祖母が料理をできなくなってから1年ほど経った頃、ついに七瀬さんは退職を決意。

「仕事と介護、どちらかをやめないと体を壊すと思いました。誰にも頼れない状況での義祖母と義母のW介護は想像以上に大変で、たぶん正常な判断ができなくなっていたのだと思います……」

七瀬さんは50歳だった。パートになることも考えたが、管理職だった人間がパートになると、自分の上に立った者がやりにくいのではないかと考え、辞職を決めた。退職後、七瀬さんは長年夢見ていた海外旅行を計画する。だが、義祖母や義両親をどうするかが問題だった。

認知症はあるが、まだらぼけ状態の義祖母はショートステイを嫌がる。悩んだ末に七瀬さんは、「旅行の間だけ預かってほしい」と義叔母(義父の妹、義祖母の娘)に相談するが、けんもほろろに拒否。結局ショートステイを利用することに。

最も手がかかる義母は初めからショートに預けることにし、元気だが一切家事ができない義父のことは義妹に相談したところ、「これが最後だからね!」と言って嫌々預かってくれた。七瀬さんは、夫と唯一独身の長男と養子の4人で海外旅行に行くことができた。

義祖母の変化

帰国後、七瀬さんの帰りを待っていたかのように義祖母が寝たきりになった。

「オムツ交換から食事まで、全部1人でやりました。ベッドから落ちたり、便いじりしたりと大変でした。一方、義母は脳梗塞の後遺症がなかなか良くならず、ケアマネさんの勧めでデイサービスに行くようになりました。プライドの高い義母はデイサービスに行っているとは絶対に言わずに、『リハビリに行っている』と言います」

義祖母は時々頭がクリアになる時があるが、ほとんどの時間を寝て過ごしていた。しかし何かの拍子に突然起き上がってベッドから転げ落ちていたり、便いじりをして立ち歩き、その手で家具や壁を触ることがあり、七瀬さんはほとほとまいっていた。

「やろうとしてやったわけではないし、怒られてもなぜ怒られているかわからないのは十分理解はできているのですが、後始末を誰にも手伝ってもらえないということに腹が立って『いい加減にして!』と怒ってしまったことがあります。病院での仕事中には一度も口にしたことのない言葉ですが、家ではダメですね……」

便いじりは、義母もした。1階のトイレは、一日に何度も掃除しなければならなかった。

たった一人で農家を継いだ夫は頼れず、義叔母も義弟も義妹も知らぬ存ぜぬを貫いている。

退職から1年ほど経った頃、限界を迎えた七瀬さんは、義祖母に頭を下げた。

「義母にも手がかかるようになって、私はもう限界です。施設に行ってもらえませんか?」

すると義祖母はうなずいて言った。「今までいっぱい世話になったな。ありがとう。施設に行くよ」。義祖母に「ありがとう」と言われて、七瀬さんは初めて報われた気がした。