【第1の条件】決して、他人の幸福をうらやんではいけない

他人より幸せになるのはなぜ困難なのか

幸福は人間の最大の関心事です。人はみんな幸福になりたい。しかし、そう願いつつも、それがきちんと叶う人はそれほど多くありません。

【図表】人生の分かれ道 幸せになる人はどっち?

なぜか。原因のひとつは「他人と比較」することにあります。フランスの哲学者モンテスキューは述べています。「ただ、幸福になりたいと望むだけなら簡単だ。しかし他人よりも幸せになりたいというのであれば、それは困難だ。われわれは、他人を実際以上に幸福だと思っているからだ」

あの人に比べ、自分はなんてちっぽけなんだ。そう自分を卑下し、人をうらやむ。多くの人が大なり小なりそんな経験をしているでしょう。「同期の社員が自分より早く出世・昇進した」「近所に住む同じくらいの年代の人の家のほうがウチより大きい」……など挙げればキリがありません。

滑稽なのは、みな比較対象が極めて身近な存在だということです。同期との収入の差を嘆く人はいても大谷翔平選手と比べる人はいませんし、自分が受け持つ仕事の規模感を大学時代の友人と比べる人はいてもアレクサンダー大王と比べる人はいません。才能が突出している、“時空間”が異なる、そんな存在には目もくれないのに、なぜ自分に近い人と比べて一喜一憂するのか。これは、「自分の価値基準」が確立していないことが原因です。この価値基準に関しては3ページに詳述しますが、これは経験や教養を身に付けることで確立するもの。それがないと、その辺に転がっている出来あいの基準を当てはめるしかない。

つまり、最大公約数的なあいまいな基準、誰かが話していた根拠不明な説とか調査統計の平均値とか大学の偏差値とか就職人気ランキングとか。他人や業者が決めた基準に乗っかることで自分のポジションを推し量るような人はいまだ少なくありません。出世・昇進、年収、住む家……何かのものさしで生きる人には幸せは訪れません。なぜなら、誰かに“勝った”としても、必ず、上には上がいるからです。

自分の価値基準がないと振り回され、他人の良い点ばかりを見て、自分の悪い点ばかりを見てしまうなど、悪循環がその後も続くことになり、生涯にわたって苦しむことになってしまいます。

以前、都内にある有名進学予備校で講演する機会がありました。予備校の生徒だけではなく、教育熱心な保護者の姿もありました。講演の中で僕は質問をしました。「もしお子さまをどこの学校でも入れてあげると言われたら、どこを選びますか」。すると「東大です」と言う人が圧倒的。ほほう、東大ね。「で、何で東大なのですか」と聞いたときの回答がすごく印象に残っています。「やっぱりいちばん入るのが難しくて、良い学校だから」「東大に行くと、より良い職業に就ける可能性が高い」「では、より良い職業って何でしょう」とさらに聞くと、「例えば大蔵省(現在の財務省)とか……」。なぜならそれがエリートが就く仕事だからです。その中でも、できたら主計局。それがいちばんエライということになっていて、見栄も張れるから――。これこそが「他人が良いと思うものを持っている」ことが幸せになってしまうという成り行きの典型です。本当は幸せになることが目的のはずなのに、そのはるか手前にある手段が目的化してしまう。今は東大がスタンフォードに、大蔵省がグーグルに変わっているだけで、いつの時代もこういう他律的な人はいます。

その手の人は、自分の価値基準をつくることをすすめても聞く耳を持ってくれません。その代わりに、「これからはこうじゃないと、生き残れない」などと言います。遠く歴史を遡れば、生きることが目的になっている時代、生きるために生きなければならない時代が確かにありました。しかし、戦国時代じゃあるまいし、生き残れないという人で、本当に死んだ人はいません。

そうした環境で生きる人が陥るのが嫉妬地獄です。人生は誰しも山あり谷ありのはずですが、嫉妬地獄の人は誰かの成功している部分、恵まれている部分しか見ていないことでこの感情が生じるのです。

「満足」の対極は「不満足」ではない

幸・不幸に関する名言はたくさんあります。ダンデミスは「他人の幸福をうらやんではいけない。なぜなら彼の密かな悲しみを知らないのだから」と言っています。この通りだとすれば、栄光を極める大谷翔平選手にもアレクサンダー大王にも人知れずつらい思いや悲しみや苦悩の時間もあるはず。でも、嫉妬に狂う人は視野も狭いため、それを想像することさえできない。

言うまでもなく、幸福感は主観的なもので決まります。幸福は、外的な要因よりも、その人自身の頭と心が感じることです。自らの中に抱く価値基準を自分の言葉で獲得し表現できたら、その時点で幸福なのです。「これが幸福だ」と自分で言語化できている状態、これこそが幸福にほかなりません。

ところが、社会にはさまざまな撹乱要素があります。高度にデジタル化したソーシャルメディアもそうです。SNSほど人の幸福感を揺るがすものはありません。そこは嫉妬が幾重にも渦巻く世界です。フェイスブックやインスタグラムに投稿する人は、意識的か無意識的かは別にして「自慢」をします。フェイスブックに時間を費やすと悲しい気持ちや寂しい気持ちになる、という学術的な調査結果がありますが、なぜ、人の気分に悪影響を与えるのか。実は、これも比較が元凶なのです。

投稿者のほとんどは自分の人生の良い部分を披露します。家族で食べたレストランのご馳走、かわいい子供の表情、素敵な休暇、輝かしいキャリアなどを示唆した写真や文を見せつけられると、「なんて素晴らしい毎日を過ごしているんだ、それに比べて自分はパッとしない」と、得も言われぬ敗北感やモヤモヤを感じさせられるわけです。

しかし、見方を変えるとどうでしょうか。そうやってキラキラした写真や文をせっせと投稿している人はどんな心理状態なのか。「自分はこんなに幸せ」と言わんばかりに、盛りに盛った個人情報をあえてネット上にオープンにして、周囲からの承認を求めている。

それは幸福か不幸かでいえば、後者の人の行為であるように思われます。こういう人もやはり自分の価値基準が確立していない、絶えず「他人との比較」の中で生きている人かもしれません。そもそも大谷翔平選手は自身のホームラン写真をSNSに掲載しません。本当に充実し幸せな人はそうした顕示欲を出すことはないのです。