「シャッター商店街」になりかけていたハモニカ横丁。その中に小さなビデオテープの店を出していた手塚さんは、ある日、その2階で焼き鳥屋を始める。なぜいきなり焼き鳥? どうしてビデオショップの経営者が、いきなり飲食店を? 鍵はなんと「ブレードランナー」だった。吉祥寺在住四半世紀、ハモニカ横丁の盛衰を詳しく知る三浦展さんとの対談第3弾。
1947年、栃木県生まれ。国際基督教大学卒。79年、吉祥寺にビデオ機器販売店を開店。81年にビデオ・インフォメーション・センターを設立。98年、吉祥寺駅前のハモニカ横丁に「ハモニカキッチン」を開店。現在は同横丁内だけでも10店を展開。
三浦 展(Atsushi Miura)
1958年、新潟県生まれ。一橋大学社会学部卒業後、パルコに入社、情報誌「アクロス」編集長を務める。90年、三菱総合研究所入社。1999年、カルチャースタディーズ研究所設立。家族、若者、消費、都市問題などを研究。近著に『第四の消費』(朝日新書)、『東京は郊外から消えていく!』(光文社新書)。
生きものを殺して食べる1回かぎりの商売
【三浦】そもそも何で飲食業を始めたんですか。ビデオの仕事をしていた手塚さんが、突然、飲食業を始めたわけですよね。
【手塚】ビデオテープ屋の2階が空き家になっていたのが直接のきっかけ。1998年に、このハモニカ横丁にビデオテープを売る小さな店を出していたんです。そこの2階が空いていて。じゃあ、焼き鳥好きだから、遊びで焼き鳥屋でもやろうかと始めて。それがハモニカキッチンの最初です。
【三浦】最初は焼き鳥屋だった。
【手塚】何か面白そうでしょ。明日からやろうと思ったときできるのが焼き鳥だった。ガスは引けるから焼くことはできる。タレはちょっとある人に教わっていたので、できる。あとはおひたしぐらい覚えればいいかな、と。そんなところから始めて。
それと、当時ハモニカ横丁に、「吉バー(きちばー)」っていう野球チームが日替わりでやるいい加減な(笑)2坪ぐらいの店があったんですよ。「これ、意外とおもしろそうじゃん。簡単にできるな」と思って。じゃあ、遊びでやろうか、と、建築屋とデザイナーとシルクスクリーンのプリンター屋の友達で始めたんです。
【三浦】そのあとも飲食店だけでなく、家電のお店をやってますよね。
【手塚】2001年に吉祥寺に「外国家電」という店を出しました。これもビデオデッキが儲からなくなって、生き延びるために始めて。技術優先でデザインが制約される国内家電と比べると、外国にはインテリアにマッチする製品が多い。日本製品に満足しない消費者に受けると思った。世界のいろんな家電品やオーディオビジュアル機器を仕入れて、値段の安さじゃなくて、そういう電気製品を使う生き方とかを訴えたいと思ったんだけど、電取法に引っかかっちゃって、売れる品が限られた。やれるものは洗濯機と、扇風機と、簡単な家電品だけ。メンテナンスもできないから、オーディオビジュアル機器が流行らなかった。ちょっと話題にはなったけれど、そのあたりは挫折しましたね。
【三浦】街に関わっていくのは、ハモニカキッチンができてからですか。
【手塚】そう、始めて半年ぐらいで、ハモニカ横丁をこうしよう……みたいな、学生のようなレジュメを書いていたんですよ。「戦後の焼け跡にこつぜんと現れた闇市は、食べるところであり、生きるところだった」みたいな。飲食を始めてわかったのは、一品種大量生産の世界の電器の世界と違って、生きものを殺して食べるという、その場その場の1回かぎりの商売なんだなと。
ぼくも凝り性なんで、焼き鳥だけでなく北京ダックをつくってみたり、いろんなことをやっていた。ただ、最初の店は狭くて、いくらやっても収支がトントンぐらいにしかならなくて、見通しがないなあと思っていたんです。そのうちに、前の店が空いた。書いたレジュメの理屈で言うと、ぼくはそこを借りなきゃならないからしょうがない。借りた。
で、そこで一所懸命やっているうちに、ずっと見ていた隣の魚屋さんが「うちはもう駄目だから、お前のところで店をやらないか」って言われて。半年ぐらい考えたんだけど、結局借りて、2003年に「FOODLABO(フードラボ)」という焼鳥屋、カフェ、食品店、キッチン用品店と、食べ物に関わるいろんなことが混ざった店をつくった。
でんとりほう。電気用品取締法。電気用品の安全確保を目的とした法律。2001年に自由化促進のために改正され「電気用品安全法」(PSE法)に改題されたが、中古製品の流通を規制する結果を招き、特にビンテージの電子楽器の関係者から反対運動が起きる。2007年施行の改正電気用品安全法で、旧電取法上表示の中古品でも販売が可能になった。