「死ねば悲しむ人がいる」という言葉は呪いとして残るだけ

それに気持ち的には死にたいと思っていても、心臓にしても肺にしても、生物の臓器というのは持ち主の意思にかかわらず動いています。人間は自分の細胞を自由に動かすことはできませんし、心臓も肺も脳も自分で動かすことはできません。

それでも死にたいと思えば、自由に動かせる手足を使って無理やり自らその生命活動を止めることもできますが、それをしないということは生きていたいからです。

それと同じように相談されたのなら「死にたい」と口では言っていても、実際に生きている以上生きていたい、少なくとも死にたい理由がなくなれば生きていたいのでしょう。

それならばとりあえずは、話を聞いてみて、その人が生きたくなるようなことをしてあげたり、言ってあげられるならそうするのもいいでしょう。

しかし何もできないのに「死んではいけない」とか「死ねば悲しむ人がいる」などと言うのは呪いでしかありません。

本当に悲惨を極める救いのない人生で心の底から死にたいと思っているのに「死んではいけない」と言われて死ぬより苦しい思いをして生き続けて苦しみのうちに死ぬことになっても、言った人間は良いことをしたと自己満足にひたるだけで、何の責任もとりません。

とりあえずその時は気を取り直して生きる気になっても、いずれはその人も死ぬのです。その時「死んではいけない」「死ねば悲しむ人がいる」などという言葉は呪いとして残ります。

死ぬことがいけないことなら、人間は皆、死ぬ時に、自分は悪いことをしている、悪人だと思いながら死ななくてはなりません。

女性
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遊んで生きて、適当に死ぬというのが一番いい

少し話が変わりますが、これを書いている私は今63歳で、同級生のほとんどが生きています。しかし、この3年くらいの間に3人ほど亡くなってしまいました。

1年くらい前にそのうちの一人が本当に急に亡くなってしまったんですが、ウミガメを見ると言って、奄美大島で海に潜っていたときの心臓麻痺が原因でした。

同じ時期に、国際政治学者の中山俊宏先生が脳溢血で逝ってしまった。中山先生は私より少し若くて55歳でした。

「羨ましい」という感情は自分より恵まれていると思う人のことを見て抱くわけですけど、昨日まで元気に活躍していた方でもそうやって急に亡くなってしまうこともあるんです。

そう考えると、逆に自分が生きているってことを幸せだと思えるのではないでしょうか(私はそもそも生きていたいと思わないので、コロッと死ねるのがむしろ羨ましいですが)。

遊んで生きて、適当に死ぬというのが一番いいですね。

「人はどうせみんな死ぬ」という言葉から無理やり人生訓を引き出したりしようとしてはいけません。この世には人間に生きる意味もなければ死ぬ意味もありません。人間には生きる価値もなければ、死ななくてはならない謂われもありません。

生きたければ生きればいいし、死にたければ死ねばいい。しかしどうせ死ぬんですから、死にたいと思って死ぬ方がまだ楽そうです。まぁ、どちらも無意味なことに変わりはありませんが。

例えば日常生活の中での小さな喜びや幸せを見つけようとしたり、死を受け入れることで自分の人生を大切にし、周りの人々との繋がりや愛情をより大切にするようになり、家族や友人、パートナーなど、大切な人たちとの時間を大切にし、互いに助け合い、支え合うことの大切さを実感し、人間関係がより良好になり、あるいは自然との共生を大切にするようになって、人生をより充実したものにしよう、とかです。

そんなことをしても結局死ぬのですから、死が近づけばすべて無駄だったとむなしい思いをしたり、親しくなった人たちと別れなければならないことで未練が残って苦しい思いをしたりするのがおちです。