「決闘」=「高貴なる野蛮」は厳粛で神聖なもの

真剣やピストルを用いた「決闘」は、絶えず「死」と隣り合わせである。それ故、これまで決闘で命を落とした多くの著名人も、そして、名もなき男たちも、そのほとんどが決闘を前にして遺言状を残してきた。決闘の場には、介添人や立会人などの関係者が居合わせるものの、決闘は、基本的には二人だけで行う究極的な清算手段である。マスク氏とザッカーバーグ氏にそこまでの覚悟があるのだろうか。

真剣を手に「決闘」の練習をするドイツ留学時代の菅野教授
真剣を手に「決闘」の練習をするドイツ留学時代の菅野教授(筆者提供)

決闘は、復讐ふくしゅうのための手段ではなく、和解のための一つの媒体である。復讐はそれ自体、決闘の本質からかけ離れたものである。決闘においては、侮辱を受けた者も、侮辱を与えた者も全く対等であり、両者とも等しく、自分の命を失ったり、重傷を負ったりする危険に晒されている。このようなカタルシス的状況において、憎悪、敵意、復讐といったネガティブな感情が芽生える余地はもはやない。

このように、どう考えても、マスク氏とザッカーバーグ氏の「決闘」は、本物の決闘の本質からは逸脱したものに思えてならないが、SNSなどを通じて情報が錯綜さくそうする現代において、人間の生きる原点が何なのかを考えるきっかけを与えてくれているように思う。

私なりの結論を言うと、二人には、総合格闘技による「ケージマッチ」=「決闘ショー」ではなく、先ほど簡単に説明させていただいた、ドイツ語圏では合法化されているメンズーアのような真剣を用いた決闘を非公開で行うことを、真剣に提唱したい。ヨーロッパで連綿と受け継がれてきた「決闘」=「高貴なる野蛮」は、見世物ではなく、もっと厳粛で神聖なものだからだ。

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