伝統的な「決闘の本質」とは全く相いれない

ここまで簡単に振り返ってきたヨーロッパにおける「決闘」の歴史を鑑みれば、マスク氏とザッカーバーグ氏の「決闘」も、SNSサービスをめぐる両者の対立に一区切りをつける「決闘裁判」あるいは、近世の剣やピストルを用いた「決闘」のような意味合いがあるのかもしれない。

しかし、気になる点がいくつかある。両氏による総合格闘技は、「大規模なチャリティーイベント」として、マスク氏のXと、ザッカーバーグ氏のメタによって管理され、両方のシステムを経由して生中継される予定になっている。これは、まさに「決闘ショー」であり、ヨーロッパで伝統的に行われてきた決闘の本質とは全く相いれないものである。

植民地時代当初のアメリカは、ピューリタン的理念がすべての社会的モラルの規範であり、当然のことながら決闘に対して否定的な国であった。ところが、1776年に13州がイギリスからの独立を宣言したあたりから、ヨーロッパにおける社会的流行現象が急速にアメリカ社会に流れ込んできた。決闘作法もまた然りである。

ヨーロッパの決闘の前提である「名誉」とは何か

1804年7月11日に合衆国副大統領アーロン・バーと合衆国建国の父の一人であるアレクサンダー・ハミルトンとの間で行われた有名な決闘は、元来、ヨーロッパの貴族階級の間で生まれた「名誉」を賭けた決闘と軌を一にするものであった。

アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘を描いたイラスト
アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘を描いたイラスト(画像=John Lord(1902). “American Founders.”/J. Mund./PD US expired/Wikimedia Commons

その一方で、アメリカで広まったのは、開拓と自衛というファクターに基づいた、「名誉」を前提としない、その場の成り行きで喧嘩をし、ピストルでの決闘に発展するという、いわゆる、アメリカン・スタイルの決闘である。ペンシルベニア州では、娯楽の延長線上にある「決闘ショー」が一時流行したほどである。

それに対して、ヨーロッパの決闘には、あくまでも「名誉が著しく汚される」という事実が前提としてあった。「自己の名誉を深く傷つけられた」と感じた者が、侮辱した相手に決闘を申し入れ、決闘を要求された相手も必ずこれに応じるという暗黙の了解があった。そして、ここでいう「名誉」は、我々が日頃使っている「意地」とか「プライド」とかという軽い意味ではなく、人間としての「尊厳」、自分が生きていくうえで「これだけは譲れない」という本質的な部分と言い換えてもいいかもしれない。