「人生でこんなに緊張したことはない」

すぐに、牧原のところへ行って、「マキ、なくなったから」と伝えると、すっごくホッとしたような、嬉しそうな顔をして、「そうです。ムネに任せたほうがいいですよ」と言いました(笑)。

プロ野球選手がなかなか言わない言葉です。基本的に試合に出てナンボですから、自分ではなく別の選手に任せたほうがいいなんて言うことはまずありません。

でも、偽らざる心境だと思います。

あの状況で、「僕にバント任せてください」なんて言える選手なんて、本当にいないと思いますから。

バントの名手と言われる源田(壮亮)でさえ、スタメンで出ているのに、ファウル、ファウル。スリーバントでやっと決めたりしたんですから、試合に出てない、打席にも立っていないという選手にそれを任せるのは酷です。

バントあるよと伝えたときの牧原の当惑した顔、そして、なくなったよと伝えたときの牧原の嬉しそうな顔、どちらも忘れることができません。

後で聞いた話ですが、牧原は人生でこんなに緊張したことはないと言っていました。試合に出てもいないのに、これで行くよってなったらどうなってしまうのだろうと。無理もないと思います。

不調の村上に監督の言葉をどう伝えるか

牧原を安堵させて、また栗山監督の隣に戻ると、今度は「ムネに任せたって監督が言ってるって伝えてきて」と言われました。

言葉にはしませんでしたが「オレが?」と思いました。バッティングコーチもいたので……。

ネクストで待っているバッターは、集中を高めています。そこにコーチが近づくと、絶対に「なんだろう」と警戒する気持ちになります。

ましてや村上は調子が上がらず、現実に今の今まで「ピンチバンター」の準備までしていたわけですから、代えられると思ってしまうのではないか、かえってマイナス効果になってしまわないかと心配になりました。

でも、吉田のカウントはもう3ボールくらいになっていたので、すぐに出ていけるように準備しながら、どう伝えようかなと考えていました。

フォアボールになったので、村上の近くに行くと目が合いました。思ったとおり、とても不安そうな表情をしました。

腹を決めて、「監督、ムネに任せたって言ってるから、思い切って行ってこい」と言いました。

「ムネに任せた」というあたりで、村上はバッターボックスのほうに向き、意識を集中させているようでした。僕には「よし」と気合を入れたように感じられました。「思い切って行ってこい」と背中を叩いて送り出しました。