吉田兼好『徒然草』に見る各地のかつての葬送風景
京都市内に散見される石仏のなかには平安期のものも少なくなく、かつての葬送の風景の断片をみることができそうだ。吉田兼好が著した随筆集『徒然草』にはこう書かれている。
「あだし野の露、鳥辺野の煙」
「化野の露」は庶民のための儚い埋葬つまり土葬を、「鳥辺野の煙」は上層階級の火葬を指していると考えられる。
いずれにせよ、餓鬼草紙が指し示すように平安末期頃から、一部の有力者のなかで石の墓(石塔)が建立されるようになった。一方で庶民は土葬した上で、せいぜい木製の卒塔婆を立てた程度の墓だと考えられる。
石塔は、時代や地域によってその形態は様々である。中世には五輪塔、宝篋印塔、無縫塔、笠塔婆、板碑など、さまざまな造形のものが出現している。
先の餓鬼草子には五輪塔や角柱塔、傘塔婆が確認できる。
当時の墓としてメジャーな種目であった五輪塔は、今なお需要がある石塔だ。五輪塔は一見すると、串を刺したおでんのような形状をしている。真言密教由来で、5つのパーツから成る。
この世の構成要素である「五大」すなわち、上部から「空・風・火・水・地」を表して造形されている。五輪塔の最初は弘法大師空海だという説もあるが、確認はされていない。
銘のある日本最古の五輪塔は、岩手県平泉の中尊寺釈尊院墓地にある1169(仁安4)年建立のものだ(重要文化財)。総高149cmで、でっぷりとした風格を湛えた造形である。被葬者は定かではない。
平安末期以降に石塔が次々と建立されていったことで有名なのが、高野山(和歌山県高野町)である。高野山は言わずと知れた弘法大師空海が開いた、真言密教の聖地だ。その最も神聖な区域、奥之院には弘法大師が835(承和2)年に入定した御廟がある。
先述のように、京都にも墓標としての石仏や石塔が数万体あるとみられており、それが地域のそこここで祀られている。京都の人々はそうした石仏を一様に「おじぞうさん」と呼んで親しみ、年に一度は「化粧」と「よだれ掛け」を新しくする。
そして、毎年お盆の時期には、おじぞうさんの前で子どもを集めた催し物「地蔵盆」を開いている。地蔵盆は「講(信仰を同じにする集まり)」の一種である。京都の地蔵盆は、市内の町内自治会の79%(2013年京都市調査)ほどで実施されているという。この日ばかりは、キリスト教や新宗教の家庭をもつ子どもも、みな一緒になって集い、数珠回しをしたり、ゲームをしたりして一日を過ごす。
読者の皆さんも中世の葬送風景を、今に伝えるアイテムとして、ぜひ、地域の路傍の地蔵や石塔に注目してほしい。日本の土葬や墓の歴史をもっと詳しく知りたい方は、拙著『絶滅する「墓」 日本の知られざる弔い』(NHK出版新書)をぜひ、手に取っていただけば幸いである。